竜宮音秘の調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

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黄泉国(よみのくに)と、黄泉帰り(蘇り)

  • 2010年10月18日 20:51
  • Posted by Yamatofuji

古事記の中に、黄泉国(よみのくに)の話が出てきます。
ヒノカグツチノカミを生んだ為に亡くなったイザナミノミコトを追って、イザナギノミコトが入ったのが黄泉国です。

イザナギノミコトが黄泉国から生還する時に通ったのが、黄泉比良坂(よもつひらさか)と呼ばれる所です。
山陰の出雲には、黄泉比良坂であったと言われている場所があり、伊賦夜坂(いふやさか)と言います。
私も以前行ったことがあり、伊賦夜坂の近くには、黄泉比良坂にゆかりのある揖夜(いや)神社という古い神社もあります。

古事記には、もちろん、歴史書としての一面もありますので、出雲の伊賦夜坂が黄泉国としての歴史の舞台になった可能性もあるかと思います。

ただ、古事記には神界の仕組みが隠されており、古事記において、黄泉国という言葉が象徴しているのは、ある特定の場所ではなく、私達人間一人一人が本質は神である自らを低く貶(おとし)めた、心の中の醜い世界の事を表しています。

黄泉とは、黄色い泉と書きます。
黄色い泉とは小便の事であり、黄泉国とは、言わば便所、肥溜めのような世界の事を言っています。
便所は糞まみれですが、畑を肥やす肥やしになる所であり、作物が育つ大切な所でもあります。
黄泉国は、私達を育てる大切な場所と言えます。

私達は、心の奥深くに、神である本当の自分自身を閉じ込めてしまい、自分自身を牢獄の中に閉じ込めたような状態で生きています。
牢獄とは刑務所であり、刑務所の臭い飯を食いながら毎日生きているような心の状態で生きているとも言えます。

自分の中にある内なる神性(愛と力)を蘇らせ、自分自身を閉じ込めた心の牢獄から自分自身を解放するのが、蘇り(黄泉帰り)です。刑期を終え、成長して、心の刑務所から出て来るという事を意味します。

古事記においては、イザナギノミコトの黄泉国からの黄泉帰りとして表されています。
黄泉国から黄泉帰った(蘇った)イザナギノミコトは、「私はなんといやな穢らわしい、きたない国に行っていた事だろう。だから、私は、身体を清める禊をしよう」と仰って、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あわきはら)にて禊祓えをなさいました。

イザナギノミコトの禊祓えによって、次々に神様が生まれました。
そして、一番最後に生まれたのが、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐ノ男命(スサノオノミコト)の、いわゆる三貴子です。

須佐ノ男命(スサノオノミコト)の物語も、実は、黄泉帰りの物語であり、イザナギノミコトとは別の場面設定を使って、黄泉国と黄泉帰り(蘇り)の物語を表していますので、別の機会に改めて書きたいと思います。

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