竜宮音秘の調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

竜宮音秘(大和富士)ブログ|BLOG

天照大御神の天岩戸開き=月読命の蘇り=須佐之男命の八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治

  • 2013年10月 6日 17:07
  • Posted by Yamatofuji

 先日、「月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)」の中で、月読命(ツキヨミノミコト)の蘇りとは、魂の蘇りであり、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)であり、それは即ち、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の「天岩戸開き」、須佐之男命(スサノオノミコト)の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事を象徴していると書きました。

 月というのは、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇る事を意味します。
 
 月食というものがあります。
 地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月に掛かる事によって、月が欠けて見える現象で、満月の時に起きます。
 太陽の光が遮られる事によって、月も光を失います。

 皆既月食の時には、月は一旦完全に光を失いますが、太陽の光が蘇るにつれて、月も光を取り戻し、輝きを取り戻します。

 皆既月食は、「月読命の蘇り=魂の蘇り=黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)」の型示しとなっています。

 夜空に輝く満月は、完成された御魂、魂の出産、魂の蘇り、黄泉国からの黄泉帰り(よみがえり)を象徴しています。

 月は、太陽の光を受けて輝きますので、月が蘇るとは、太陽が蘇る事を意味し、それは即ち、月読命の蘇りであり、天照大御神の「天岩戸開き」と同じ事を象徴しています。

 自分の中にある本当の光、内なる神性が蘇り、自分自身の本当の輝きが蘇る事を意味しています。

 それは即ち、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」と同じ事でもあります。
 八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されているのは、自らの中に潜む否定的想念であり、自己否定などの否定的想念、神である自己を否定する否定的想念が、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)という表現を使って象徴されています。

 須佐之男命が、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時、尾から出て来たのが、三種の神器の一つである、「草薙の剣(クサナギノツルギ)」です。

 剣とは自らの中から出て来るものであり、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されている、自らの中に潜む否定的想念を退治した時に現れて来た「草薙の剣(クサナギノツルギ)」とは、神の証であり、瑞(ミズノ)御魂の事でもあります。

 「草薙の剣(クサナギノツルギ)」は、須佐之男命から天照大御神に献上された、と古事記に書かれている事には、とても深い意味が込められていると思います。

 自らの乱暴狼藉により、姉・天照大御神が天岩戸に隠れてしまい、世界が光を失って闇に包まれてしまった責任を取らされて、高天原から追放されてしまった須佐之男命ですが、最後には、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)に象徴されている、自らの中に潜む否定的想念を退治して、自らの本当の輝きを取り戻し、神の証である「草薙の剣(クサナギノツルギ)」を、高天原の天照大御神に献上しました。

 そして、須佐之男命は、晴れて目出度く、櫛稲田姫(クシイナダヒメ)と「正式な結婚」をして、出雲に居を構える事になりました。

 須佐之男命の娘・須世理毘売(スセリヒメ)と結婚されたのが、出雲大社の御祭神である大国主(オオクニヌシ)大神です。

 出雲大社は、伊勢神宮と並んで、日本を代表する神社であり、表の神界の裏の働きになります。
 そして、表の神界の表の働きが、伊勢神宮になります。

 表の神界の表の働きである伊勢神宮と、表の神界の裏の働きである出雲大社、我が国・日本を代表する神社である伊勢神宮と出雲大社には、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)が深く関わっています。

 伊邪那岐命が黄泉国(ヨミノクニ)から黄泉帰り(蘇り)、禊払いの後に生まれたのが、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)です。

 黄泉(ヨミ)とは、黄色い泉と書きます。
 黄色い泉とは、小便の事であり、言わば、肥溜めのような醜いものの象徴です。
 黄泉国が象徴しているのは、自らの心の中にある闇の世界、言わば、肥溜めのような世界を象徴しています。

 伊邪那岐命は、自らの心の中にある闇の世界、言わば、肥溜めのような世界である黄泉国から黄泉帰り(蘇り)、禊払いの後に、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)を生んだのです。

 古事記の中で、伊邪那岐命の「黄泉国からの黄泉帰り(蘇り)」として象徴的に書かれているのは、魂の蘇りという事であり、それは即ち、天照大御神の「天岩戸開き」の事であり、月読命の蘇りという事であり、須佐之男命の「八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)退治」の事でもあります。

 古事記の中でよく知られている、伊邪那岐命も、天照大御神も、須佐之男命も、一度は自らの本当の光を失った後、再び自分自身の本当の光を取り戻し、蘇り、さらに光り輝くという仕組みになっています。

 そして、月読命の蘇りは、古事記の中では隠されていますが、天照大御神と月読命の働きを統合した須佐之男命の蘇りの中で、月読命も蘇る事になります。

最近の記事|recent Entry

カテゴリー|Category

月別アーカイブ|Archives

リンク|Links

フィード|FEEDS