竜宮音秘の調べ・神響き、天岩戸開きの祝いの神楽歌

竜宮音秘(大和富士)ブログ|BLOG

未来は部分的にある程度までは決まっている、という勘違いについて

  • 2015年4月28日 21:03
  • Posted by Yamatofuji

 未来は部分的に、ある程度までは決まっていると考える人たちがいます。
 個人レベルでは、結婚や就職など、人生を左右するような大きな出来事はある程度決まっているとか、社会レベルでは、歴史的大事件のようなものは、ある程度決まっているという考え方です。

 しかし、未来は100パーセント確定しているのであり、部分的にある程度まで決まっている訳ではありません。

 例え、99.99パーセントであったとしても、100パーセントでなければ、何も確定していないのと同じことなのです。
 何故なら、一つの重要な要素でも変わってしまえば、全ての局面は変わってしまうからです。

 未来は、100パーセント確定しているか、あるいは、何も確定しておらず全くの白紙かの、どちらかしか無いのです。
 未来は、部分的に、ある程度まで決まっているということはありません。

 もし、多くの人たちが考えるように、時間というものが過去→現在→未来へと流れており、大宇宙の森羅万象の全てが、それぞれテンデンバラバラに偶然起きているのであれば、未来は何も確定しておらず、完全に白紙なのです。

 しかし、実際には、時間というものは流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在しているのであり、敢えて、時間の流れというものを想定するとすれば、それは、多くの人たちが考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。

 以前、「未来からやって来る時間(時間の流れは未来→現在→過去)」の中に書いたように、既に100パーセント確定している未来から時間がやって来て、そこに至る為のプロセスが順番に創り出されているのです。

「原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれている」の中に書いたように、原因があって結果があるのではなく、ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているのであり、順番が逆なのです。

 未来は既に100パーセント確定していますので、部分的にある程度まで決まっている訳ではありません。

 もし、自分が将来、誰かと結婚したり、何処かの会社に就職したり、大きな病気やケガをしたり、あるいは、ジャンボ宝くじの一等にでも当選するような何かの幸運を得るとしたら、それらの大きな出来事と思えるような事柄だけが決まっているのではなく、それらも含めた、全てが100パーセント決まっているということなのです。

 社会レベルの話では、大地震などの天変地異や悲劇的な大事件、あるいは逆に、人類に幸福をもたらす素晴らしい出来事などが起きるとしたら、それらの大きな出来事と思えるような事柄だけが決まっているのではなく、それらも含めた、全てが100パーセント決まっているということなのです。

 このことを理解していただく為に、現在から未来という視点で話すよりは、過去から現在という視点で話したほうが、より理解しやすいと思いますので、過去から現在という視点で、説明してみたいと思います。

 今、地球・世界がこうである為には、一点一角が違っても、全く同じ世界というものは存在していません。

 例え、今年の3月に四年制大学を卒業した一人の普通の学生が、4年前に別の大学に入学していただけでも、今ある地球・世界は、全く別の違う世界になっているのです。

 仮に、今年の3月に早稲田大学を卒業した、山田太郎さんという人がいるとします。
 彼は、4年前、早稲田大学法学部と慶應義塾大学法学部の両方に合格し、迷った末に、早稲田大学に入学することを選択したと仮定します。

 もし、山田太郎さんが、4年前、早稲田大学ではなく慶應義塾大学への入学を選択していたとしたら、地球・世界は、今、全く別の違う世界になっているのです。
 このことを、理解出来ますか?

 まず、今年の早稲田大学の卒業アルバムと卒業生名簿から、山田太郎さんの写真と名前が消えます。
 そして、今年の慶應義塾大学の卒業アルバムと卒業生名簿に、山田太郎さんの写真と名前が出現するのです。

 これを、単に、早稲田大学と慶應義塾大学の卒業アルバムと卒業生名簿の話かと思われるかも知れませんが、実は、それだけではなく、今ある地球・世界も、全く別の世界になっているのです。

 まず、当の本人の山田太郎さんの人生が、4年前の4月に違ったスタートを切ることによって、この4年間の行動全てが、全く違った道程になることはお分かりいただけるかと思います。
 仮に、4年前の4月1日の朝から違う場面がスタートしたとするならば、今年の3月31日までの丸4年間、一分一秒として全く同じ場面は存在せず、全てが違う場面となるのです。

 そして、私たち人間一人ひとりは、他の人たちとの関わりの中で生きていますので、山田太郎さんの人生が全く違う場面になるだけではなく、家族を始め、山田太郎さんとこの4年間に直接関わりのあった人たち全ては、別の違う場面が展開していくのです。

 そして、山田太郎さんと直接関わりのあった人たちの人生が違う場面になっていくということは、その人たちの周りにいる、山田太郎さんが直接関わりを持たない人たちの人生も、全く違う場面が展開していくということなのです。

 そして、これが連鎖反応的に地球規模・世界規模でアメーバのようにどんどん拡がっていきますので、山田太郎さんが4年前に、早稲田大学ではなく慶應義塾大学へ入学していたとしたら、それだけで、今、この地球・世界は全く別の違うものになっているのです。

 仮に、山田太郎さんは、4年前の4月に、早稲田大学法学部の1組に入っていたとします。
 そして、法学部1組には、30人所属していたとします。
 そうすると、もし、山田太郎さんが、慶應義塾大学を選んでいたとすると、早稲田大学法学部1組の、山田太郎さん以外の29人の人生から、山田太郎さんと関わった全ての場面が消えてしまうのです。

 そして、山田太郎さんと関わりのあった場面が消えてしまうということは、そこから全く別の場面が展開していくということなのです。
 29人のクラスメイトそれぞれが、山田太郎さんと初めて言葉を交わしたり、関わりを持った瞬間から先の場面は、まったく違う別の場面が、それぞれのクラスメイトに展開していくことになるのです。

 そして、29人のクラスメイトそれぞれの人生において、別の違う場面が展開していくということは、29人のクラスメイトの家族・友人など周りの人たちにおいても、違う別の場面が展開していくということなのです。

 そして、29人のクラスメイトの家族・友人など周りの人たちの人生において、違う別の場面が展開していくということは、その人たちの周りにいる人たちにも、違う別の場面が展開していくことになります。

 4年前に、山田太郎さんが、早稲田大学ではなく、慶應義塾大学を選んでいたとしたら、世界規模・地球規模で見れば小さな違いのように思えるその一点の違いが、アメーバ状に全世界に波及して、4年後の今現在は、全く違う地球・世界になっているのです。

 広い地平線に、2本の直線を引くとします。
 全く同じ角度ではなく、仮に、千分の一度とか、万分の一度とか、ごくわずかな角度を付けたとします。

 そうすると、最初は、全く同じ直線で違いは無いように見えたとしても、だんだん先に行くと、少しずつ違う直線になり、これを伸ばせば伸ばす程、どんどん違いが大きくなっていきますので、これを、地平線の果、海の向こうまで伸ばしていくと、地球規模・世界規模では、とても大きな違いになることはお分かりいただけるかと思います。

 今という時代は特に、インターネットが普及し、スマートフォンなどが普及していますので、何時でも何処でも、携帯電話で誰かと話をしたり、メールをしたり、ツイッターやフェイスブックを使ってコミュニケーションしたりするということが、ものすごくスピーディーに、しかもグローバルに出来る時代になっています。

 4年前に、山田太郎さんという、一人のごく普通の若者が、早稲田大学ではなく慶應義塾大学への入学を選択していただけで、4年後の今、この地球・世界は、全く違ったものになってしまうのです。

 山田太郎さんが4年前に早稲田大学に入学した時のクラスメイトや部活・サークルの仲間たちと最初に出会った場面から、その人たちの人生における山田太郎さんとの出会いの場面が消えてしまい、違う別の場面がそれぞれの人たちに展開していくことになります。
 そして、それぞれのクラスメイトや部活・サークルの仲間たちの周りにいる家族や友人たちとも違う場面が展開していくことになり、これが連鎖反応的に地球規模・世界規模でどんどん拡がっていくことになるのです。

 そして、山田太郎さんが、4年前の4月に、もし仮に、慶應義塾大学に入学し、法学部の3組に入っていたとしたら、3組のクラスメイト全員の人生が、違った場面となって展開していくのです。
 山田太郎さんとの出会いが生まれ、会話をしたりすることによって、違う場面が展開していきますので、それが、各クラスメイトの家族や周りの人たちにも波及し、さらにその先へと、アメーバ状に、違う場面がどんどん展開していくことになります。

 仮に、4年前の4月1日の朝から、山田太郎さんの人生が違う場面で展開し始めたとしたら、その一点の違いが山田太郎さんの周囲からアメーバ状に拡がって行き、インターネットの普及も相まって、4年後の今現在、この地球・世界は、全く違う世界が展開していることになるのです。

 多くの人たちは、自分の人生においても、社会レベルにおいても、大きな出来事と思える事柄だけにフォーカスし過ぎる傾向がありますが、大きな出来事と思えるようなことも、一点一角が違っても、紙(神)一重の差で、違ったものになるのです。

 例えば、自分が車を運転していたとして、一瞬油断しただけでも、対向車と衝突して、命に関わるような大事故を引き起こす危険があります。
 車を運転中に、ある対向車と何事も無くすれ違うのと、正面衝突して大事故を起こすことの違いは、一瞬の油断という、時間にすれば、一秒にも満たないような違いかも知れません。

 一瞬の違いが、生死をも左右しかねない訳で、一点一角が違っても、私たちの人生は、違ったものになるのです。
 車を運転中に、ある対向車と何事も無くすれ違うのと、正面衝突してしまうことの違いは、ほんの一瞬油断したかしないかの違い、まさに紙(神)一重なのです。

 ある人がジャンボ宝くじの一等に当選したとしたら、当選した人と、当選した人より一人前に買った人、あるいは当選した人のすぐ後に買った人の違いは、順番が一つ前だったか後だったかの違いです。
 同じ宝くじ売り場の同じ窓口で、同じような時間に買ったとしても、順番が一つ前か後かで、一等に当たるか当たらないかの違いが出ます。
 仮に、当選した人も、その前後の順番だった人も、連番で10枚ずつ、特に数字を指定せずに一番上にあるものから購入したとしたら、一等に当選した人と、その前後の二人との違いは、順番が一つ前だったか後だったかの違いであり、まさに紙(神)一重なのです。

 一点一角が違っても、私たちの人生は、違う別のものになってしまうのです。
 そして、一人の人生が違ったものになるだけではなく、その周りにいる人たちとの関わりも別の場面が展開することになり、それがアメーバ状に拡がって行って、世の中は、全く別の違う場面になるのです。

 多くの人たちは、自分が大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在であることを忘れて、自分の力で何かを考えたり行動したりしていると思っています。
 命を与えられて生かされているからこそ、考えたり感じたり行動したり、泣いたり笑ったり出来る訳で、私たちの思考や感情・行動など全てを司っているのは、私たち自身ではなく、天(大宇宙)なのです。

 自分の思考・感情・行動などの全てを司っている力と、自分に生命を与え、一呼吸一呼吸自分を生かしている力とは、同じものであり、その同じ力が、地上に生きる70億人全ての人たちに生命を与え、一人ひとりの思考・感情・行動を全て司っています。

 そして、その同じ力が、地震などの天変地異は元より、地球の自転や月の運行、太陽の活動や星々の運行に至るまで、大宇宙の森羅万象の全てを司っているのです。

 この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけなので、大宇宙の森羅万象の全ての営みは、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動いているのです。

 全ては大宇宙意識の計画の中にあり、未来は100パーセント確定していますので、ある程度まで部分的に決まっている訳ではありません。

 もし、自分の人生において、将来、何か大きな出来事と思えるようなことが起きるとしたら、大きな出来事と思えるような事柄だけが決まっているのではなく、それらも含めて、全てが100パーセント決まっているということなのです。

 もし、社会的に大きな出来事、歴史的大事件のようなものが起きるとしたら、大事件と思えるような出来事だけが決まっているのではなく、それらも含めて、全てが100パーセント決まっているということなのです。

 未来は100パーセント確定していますので、部分的にある程度まで決まっている訳ではありません。

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