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真のデジャヴュ(既視感)とは、ここが「追想の中」であることが魂の記憶として蘇ること

  • 2016年4月10日 19:01
  • Posted by Yamatofuji

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 ここが「追想の中」の世界だということを、感じられるでしょうか?

 実は、私たちは、今初めてこの世界を体験している訳ではなく、「追想の中」の世界として「追体験」しています。

 そして、ここが「追想の中」の世界での「追体験」だということを想い出し、魂の記憶が蘇った時に、それをデジャヴュ(既視感)として感じることがあります。

 真のデジャヴュ(既視感)とは、魂の記憶が蘇り、ここが「追想の中」の世界であり、それを今「追体験」しているのだということを想い出した時に感じられるものなのです。

「デジャヴュ(既視感)」という言葉があります。
 初めて来た場所なのに何となく懐かしい感じがして、初めて来た感じがしないとか、初めて会った人なのに、以前どこかであったことがあるような感じがして、初めて会った感じがしないというような体験をすることがあります。

「デジャヴュ(既視感)」という言葉はよく、この場所は過去世で来た場所だとか、この人は前世で一緒だった人だとかいうような感じで使われたりしています。

 しかし、『ここは「追想の中」での「追体験」』、こちらの記事の中でも書きましたが、「デジャヴュ(既視感)」というのは、本当はもっともっと奥が深く、意味深いものなのです。

 何故なら、私たちは今、「追想の中」を生きており、「追想の中」の世界を「追体験」しているからなのです。

 多くの人たちは、時間というものが過去→現在→未来へと流れており、今この瞬間に存在している世界は、今初めて大宇宙に存在していると考えているかも知れません。

 そして、時間というものが過去→現在→未来へと流れているので白紙の未来があるかのように考えている人も多いかも知れません。

 しかし、『未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているもの』、こちらの記事の中でも書きましたが、未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものなので、既に100パーセント確定して存在しているものなのです。

 究極的には時間というものは存在しておらず、過去も未来も今同時に存在しており、大宇宙の全てが元々存在しているのです。

 時空を超越した大宇宙の本質の世界(絶対世界)においては、大宇宙の全てが元々存在しています。
 
 そして、時空を超越した大宇宙の本質の世界(絶対世界)の「映し世(うつしよ)」としての物理的大宇宙(相対世界)の中の、ある「時間軸と空間軸」の中に私たちはいます。

 すなわち、21世紀の地球という、ある「時空」の中に私たちはいるのですが、この時空は今初めて大宇宙に存在している訳ではなく、元々存在していた時空なのであり、今私たちは、それを「追体験」しているということなのです。

 分かりやすく簡単にイメージしていただくならば、再生されたDVDの映画を再び見ているようなものかも知れません。
 あるいは、再生された3Dホログラムの映像を再び見ているようなものかも知れません。

 言わば、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出された再生ビデオを見ているようなものなのです。

 私たちが見ている、21世紀の地球というこの「時空」は、敢えて言うならば、再生されたDVDの映画、あるいは再生された3Dホログラムの映像のようなものなので、実はこの世界というのは、かつて私たちが見たことがある世界、体験したことがある世界なのです。

 今初めて見ている世界、今初めて体験している世界ではないということなのです。

 ただ、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、そのことはよく分かりません。

 何故なら、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にある意識であり、氷山の一角のようなものにしか過ぎないからです。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にある意識であり、氷山の一角にしか過ぎませんが、水面下においては、潜在意識・無意識と呼ばれるような部分もあり、私たちの意識を一番奥深くまで遡っていくと、最終的には、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」までたどり着くことになります。

 ですから、私たち一人ひとりは、意識の一番奥深くにおいては、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。

 大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしています。

 何故なら、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したというだけでなく、この時空はかつて存在した時空であり、その時に体験をして、既に知っているからなのです。

 魂の記憶が蘇ってきて、ここが「追想の中」だということを想い出せるようになると、様々なことにデジャヴ(既視感)を覚えるかも知れません。

 それは単に、人や場所に対してだけではなく、自分が味わった一つひとつの体験や、あるいは、自分が味わった一つひとつの感情に対しても、かつて味わったことがあるという「懐かしさ」を覚えるかも知れません。

 そして、過去世うんぬんということに留まらず、過去には無かった現代のものや、現代から見て未来にあたるようなことまで含めて、あらゆることに対してデジャヴ(既視感)を覚えたとしても、決して不思議なことではないのです。

 何故なら、私たちが生きている、21世紀の地球というこの時空そのものが、かつて存在した時空なのであり、私たちがかつて体験した世界だからなのです。

 魂の記憶が蘇ってくると、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。

 我が魂は、未来で体験する全て、未来で味わう感情の全てを、既に知っています。

 何故なら、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したというだけでなく、この時空はかつて存在した時空であり、その時既に体験をして、知っているからなのです。

 本源の我、真我である我が魂は、自分がこれから人生で体験する全て、死に至るまでの自分の人生の全てを、既に知り尽くしています。

 魂の記憶を蘇らせることができれば、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。

 そして、魂の記憶が蘇ってきて、未来の記憶とでも呼ぶべきものも少しずつ蘇らせることができるようになってくると、それを「生きるという創造の旅」に使っていくこともできるようになります。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、未来のことはほとんど分かりません。

 ですから、心と感じるままに、瞬間瞬間、自分が望むような創造をかけて生きていけば良いのですが、魂の記憶が蘇ってきて、未来の記憶とでも呼ぶべきものも少しずつ蘇らせることができるようになってくると、それを使って創造していくことができるようになってきます。

 魂の記憶を蘇らせることができるようになってくると、未来の記憶を蘇らせて、それを瞬間瞬間の創造に使って生きるということも少しずつできるようになってきます。

 肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、未来のことはほとんど分かりませんが、真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを既に体験して知り尽くしていますので、魂の記憶を想い出して蘇らせ、それを瞬間瞬間の創造に使うことも少しずつできるようになります。

 魂の記憶としての真のデジャヴ(既視感)を感じることができれば、それを瞬間瞬間の創造に使って生きていくことができるようになってきます。

 真のデジャヴュ(既視感)とは、魂の記憶が蘇り、ここが「追想の中」の世界であり、それを今「追体験」しているのだということを想い出した時に感じられるものなのです。

 未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定して存在しているものなのです。

 私たちは、元々存在している未来、かつて体験して知っている世界を、これから再び体験していくだけなのです。

 私たちは、かつて体験した世界を今、「追体験」しているのであり、今、「追想の中」を生きているのです。

 21世紀の地球という、今ここにある時空は、今初めて大宇宙に存在している訳ではなく、元々存在している時空なのであり、かつて存在した時空でもあるのです。

 そして、私たちは、かつてこの時空を体験したことがあり、意識の深い部分においては、既に知っている世界なのです。

『ここは緑美しき懐かしき地球(追想の中)』、こちらの記事の中でも書きましたが、21世紀の地球という、今ここにある座標軸は、実は、かつて存在した「懐かしき」時空なのであり、ここは「追想の中」にある、「緑美しき懐かしき地球」なのです。


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