竜宮音秘(大和富士)ブログ|BLOG
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『思い通りでないところが、真我である魂にとっては全て思い通りだと気付くことが大切』について、YouTubeに動画を公開しました!
『思い通りでないところが、真我である魂にとっては全て思い通りだと気付くことが大切』について、YouTubeに動画を公開しました。
過去記事や著書などもぜひご参照下さい!
『思い通りでないところが、真我である魂にとっては全て思い通りだと気付くことが大切』
『魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定どおりだった事を想い出す』
『魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだったことを想い出す』について、YouTubeに動画を公開しました。
拙書
『魂の夢、光り輝く魂』
『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』
『永遠(とわ)の中今』
『魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだったことを想い出す』について、YouTubeに動画を公開しました!
『魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだったことを想い出す』について、YouTubeに動画を公開しました。
過去記事や著書などもぜひご参照下さい!
『魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定どおりだった事を想い出す』
『魂の記憶を蘇らせる』
『真我である魂の基本プログラムによって人生が導かれている』
『魂の基本プログラムによって、死に至るまでの全てがプログラムされている』
『魂の基本プログラムにより、未来の私が現在の私を導いている』
『人生の流れを信頼する――今、自分はこの世界を完璧に通過中』
『現れた現実、起きた出来事が全てであり、「もし・・・」という仮定は存在していない』
『自分の身に起きる全ての現実は、心の純化、意識の福化の為に最善の出来事が起きている』
『全ては必要必然であり、自分が映す現実世界は、その瞬間に自分が体験して味わうべきもの』
『今の自分の意識が創られる為には、今まで出会って来た全ての人、事、物が必要だった。』
『魂の願い』
『魂の進化』
『魂の夢』
『今、自分が出会っている現実には、一切無駄というものが無い』
『全ては我が魂の計画』
『大宇宙意識と本源の我』
『自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂』
『ここは「追想の中」での「追体験」』
『全ては我が魂の計画の中』
拙書
『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』
『何故、未来は100パーセント確定しているのか』
『魂の夢、光り輝く魂』
『永遠(とわ)の中今』
『富士は晴れたり日本晴れ』
『生きるのには目的があり、人生の基本となるプログラムは「魂の進化」』について、YouTubeに動画を公開しました!
『生きるのには目的があり、人生の基本となるプログラムは「魂の進化」』について、YouTubeに動画を公開致しました。
過去記事や著書などもぜひご参照下さい!
『魂の進化』
『魂の進化』
『自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂』
『自分の人生の創造主は自分自身であり、自分の人生の主体者・創造者は真我である魂』
『大宇宙意識と本源の我』
『大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識と、本源の我であり真我である魂との関係』
『自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂』について、YouTubeに動画を公開しました!
拙書
『永遠(とわ)の中今』
『魂の夢、光り輝く魂』
『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』
『富士は晴れたり日本晴れ』
『自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂』について、YouTubeに動画を公開しました!
『自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂』について、YouTubeに動画を公開致しました。
過去記事や著書などもぜひご参照下さい!
『自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂』
『自分の人生の創造主は自分自身であり、自分の人生の主体者・創造者は真我である魂』
『大宇宙意識と本源の我』
『大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識と、本源の我であり真我である魂との関係』
『一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主』
『今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない』
『アバター(分身・化身)としての自分を理解することが大切』
『私たち一人ひとりがアバター(Avatar)であり、神の化身であることを自覚することが大切』
『肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在しており、真我である魂が、分身であるアバターをコントロールしている』
拙書
『魂の夢、光り輝く魂』
『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』
『何故、未来は100パーセント確定しているのか』
『大宇宙意識と本源の我』についてYouTubeに動画を公開しました!
『大宇宙意識と本源の我』についてYouTubeに動画を公開しました!
過去記事や著書などもぜひご参照下さい!
『大宇宙意識と本源の我』
『大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識と、本源の我であり真我である魂との関係』
『今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない』
『アバター(分身・化身)としての自分を理解することが大切』
『私たち一人ひとりがアバター(Avatar)であり、神の化身であることを自覚することが大切』
『肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在しており、真我である魂が、分身であるアバターをコントロールしている』
拙書
『魂の夢、光り輝く魂』
『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』
『何故、未来は100パーセント確定しているのか』
夏は、幻の世である物理的大宇宙の「無限」の美しさ、生命の輝きを最も感じられる季節
いよいよ夏本番です。
梅雨明けした地域も多く、全国的に、暑い日々が続いています。
私は、この夏という季節が、大好きです。
日本の夏は、本当に素晴らしいと思います。
自分が夏に生まれたということもあるのかも知れませんが、夏という季節は、人生が持つ輝き、生命のかけがえの無さ、生命の美しさ、大宇宙の輝きというものを、最も感じられる季節だと思います。
そして、『この世界そのものが、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、かけがえのなさを実感できるようになる』、こちらの記事の中でも書きましたが、この物理的大宇宙そのものがバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、言わば幻の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、そして、生命のかけがえのなさを感じられるようになります。
そして、生命の持つ輝きというものを、より一層感じられるようになります。
『幻の世と知って生きることに生命の輝きを見る』、こちらの記事の中でも書きましたが、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、言わば幻の世であることを知って生きることに、生命の輝きを見ることが出来るようになるのです。
この世界(物理的大宇宙)が全て幻であることが分かれば分かる程、自分が映す現実世界は、ますます鮮やかに美しく感じられ、ありがたく、そして面白く感じられてくるのです。
この世界が幻だから美しくない、ありがたくない、面白くない、生きる価値がない、ということではなく、この世界が全て幻の世であるからこそ、この世界は本当に美しく、ありがたく、面白く、生きて味わう価値があるのです。
この世界が全て幻であるが故に、生きる喜び、生きる楽しみ、生命のかけがえのなさ、生命の美しさ、生命の輝きがより一層感じられてくるのです。
この世界が全て幻であることを知って生きることに、生命の輝きを見ることが大切になります。
それを体験して味わう為に、あなたは、肉体の衣という、自分自身のアバター(分身・化身)を使って、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を今、体験しているのです。
『今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない』、こちらの記事の中でも書きましたが、肉体を持った自分というのは、本当の自分ではなく、真我である魂が使っているアバター(分身・化身)なのです。
真我である魂とは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)という「純粋意識」なので、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である物理的大宇宙を体験するためには、肉体というアバター(分身・化身)が必要なのです。
日本の夏は、本当に素晴らしいと思います。
夏という季節は、人生が持つ輝き、生命のかけがえの無さ、生命の美しさ、大宇宙の輝きというものを、最も感じられる季節だと思います。
ぜひあなたも、今年の夏、肉体という自分のアバター(分身・化身)を使って、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり幻の世である、この物理的大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、そして生命の輝きを、思いっきり感じてみて下さい。
自分の人生の創造主は自分自身であり、自分の人生の主体者・創造者は真我である魂
自分の人生の創造主は自分自身であり、自分の人生の主体者・創造者は、真我である我が魂です。
あなたは、自分が創造主であり、自分の人生の本当の創造主は、他ならぬ自分自身であることに気付いていますか?
あなた自身が、あなたの人生の本当の創造主なのです。
なぜだか分かりますか?
本当のあなた自身が、あなたの人生の全てを体験したかったので、あなたの人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したからなのです。
本当のあなた自身とは、本源の我であり、真我である魂のことです。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である我が魂なのです。
真我である魂があなたの人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのは、あなたの人生の全てを体験したかったからなのです。
全ては、体験するためなのです。
あなたが人生で感じる喜びや悲しみの全て、あなたの人生の全てを体験して味わいたかったからなのです。
なぜ、真我である魂は、自分の人生の全てを体験して味わいたかったのでしょうか?
それは、真我である魂というのは「純粋意識」なので、肉体という衣をまとわないと、体験することができないからなのです。
ここで少し、真我である魂という「純粋意識」について触れておきます。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけなのです。
大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂なのです。
自分の人生の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
真我である魂は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化のために、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。
真我である魂という「純粋意識」は、魂の進化のために、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」のを体験するために、肉体という衣を「想像=創造(そうぞう)」したのです。
多くの人たちは、病気やケガをすると、それを不幸・不運と呼び、その一方で、温泉に入って快適にくつろいだり、スポーツで心地よい汗を流したり、ハワイやタヒチのような常夏の海で泳いだり、愛する異性と精神的にも肉体的にも結ばれる喜びを幸福と呼んでいます。
でも、それらの全てを感じること、味わうことができるのは、肉体という精妙な衣をまとっているからなのです。
もしも、私たちの肉体が、超合金のロボットのような体だったらどうなるか想像してみてください。
病気やケガをすることはありません。
しかし、温泉に入って快適にくつろいだり、スポーツで心地よい汗を流したり、ハワイやタヒチのような常夏の海で泳いだり、愛する異性と精神的にも肉体的にも結ばれる喜びを味わうこともできないのです。
私たち一人ひとりは、自分の肉体という精妙な衣をまとっているからこそ、喜びも悲しみも含めた、自分の人生の全てを体験して味わうことができます。
そして、真我である魂が望んでいるのは、そこなのです。
真我である魂という「純粋意識」は、肉体という衣をまとって、自分の人生の全てを体験して味わいたいのです。
真我である魂という「純粋意識」にとっては、体験こそが喜びであり、財産であるとも言えます。
真我である魂という「純粋意識」の夢はただ一点、魂の進化ということであり、光り輝く魂になることなのです。
自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の進化にとって最善の出来事として「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
真我である魂という「純粋意識」が望んでいるのは、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」ことを夢見ているのです。
豊かなる世界とは、自分の外の何かの形の中にある訳ではなく、自分自身の心の中にしか存在していませんので、真我である魂という「純粋意識」は、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」ことを体験して味わいたいのです。
自分が人生で体験する全ての現実は、そのために真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」した最善のできごとなのです。
自分の人生の真の創造主は、他ならぬ自分自身なのです。
そしてもちろん、自分の肉体という衣も、真我である魂が、魂の進化にとって一番ピッタリな「遊び着」として「想像=創造(そうぞう)」したものになります。
『肉体という衣について』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分の肉体というのは、真我である魂という「純粋意識」が、魂を進化させるために一番最適な「遊び着」として「想像=創造(そうぞう)」されているものなのです。
そして、自分の肉体というのは、真我である魂という「純粋意識」が、物理的大宇宙を体験するために使っている「アバター(分身・化身)」なのです。
『今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分の肉体というのは、真我である魂という「純粋意識」が、現実世界を体験するために使っている「アバター(分身・化身)」にしか過ぎません。
真我である魂という「純粋意識」は、肉体を持った「アバター(分身・化身)」での体験を通して、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」のを体験して味わい、魂の夢を想い出すことを望んでいるのです。
しかし、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、なかなか真我である魂の意図が分からないので、様々な出来事を幸・不幸、運・不運と決めつけて、大騒ぎしています。
肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分であり、意識の奥深くにある真我である魂との間には大きな「差(ギャップ)」があります。
真我である魂と肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)との「差(ギャップ)」を取って生きることが、本当の意味での「差取り=悟り(さとり)」ということでもあるのです。
そして、自分が映す現実世界(宇宙)の全ては、自分自身の意識の中にあるものなのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがある訳ではなく、自分が映す現実世界(宇宙)の全ては、自分の意識を投影した自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色なのです。
自分自身の心の中にある心象風景とでも言うべきものを、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなのです。
ですから、『自分が変われば世界が変わる』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分の心が変われば、自分の心が映し出された現実世界(宇宙)もまた変わります。
自分自身の心が変われば変わった分だけ、自分の心が映し出された現実世界(宇宙)もまた、違ったふうに見えてくるのです。
そして、『心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分の内面が輝けば輝くほど、自分の目に映る現実世界は、本当に、輝きを増してきます。
生きていることそれ自体がありがたい、うれしい、面白い、美しい、存在が感謝、という状態になればなるほど、自分の目に映る現実世界(宇宙)もまた、ありがたい、うれしい、面白い、美しいと感じられるようになるのです。
自分が輝けば、世界(宇宙)もまた輝きます。
自分が元気であれば、世界(宇宙)もまた元気です。
とても単純なことなのです。
もしも今、自分の目に映る現実世界(宇宙)が美しく感じられないとしたら、それは、世界(宇宙)が美しくないのではなく、自分自身の心が美しさを感じられないだけなのです。
自分の心が美しくなれば、自分の目に映る現実世界(宇宙)は美しく輝きます。
自分が映す現実世界(宇宙)とは、自分の外にある何か確固とした客観的な世界などではなく、全ては自分の意識が投影された内面の世界であり、全ては主観の世界なのです。
私たち一人ひとりが創造主なので、現実世界(宇宙)と呼ばれるものも、自分自身の意識の中にしか存在していないのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
あなたの真我である魂という「純粋意識」の夢を想い出すことが大切になります。
あなたの人生の本当の創造主は、他ならぬ自分自身なのです。
あなたの真我である魂の夢を想い出し、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」のを体験して味わうことが大切になります。
真のデジャヴュ(既視感)とは、ここが「追想の中」であることが魂の記憶として蘇ること
ここが「追想の中」の世界だということを、感じられるでしょうか?
実は、私たちは、今初めてこの世界を体験している訳ではなく、「追想の中」の世界として「追体験」しています。
そして、ここが「追想の中」の世界での「追体験」だということを想い出し、魂の記憶が蘇った時に、それをデジャヴュ(既視感)として感じることがあります。
真のデジャヴュ(既視感)とは、魂の記憶が蘇り、ここが「追想の中」の世界であり、それを今「追体験」しているのだということを想い出した時に感じられるものなのです。
「デジャヴュ(既視感)」という言葉があります。
初めて来た場所なのに何となく懐かしい感じがして、初めて来た感じがしないとか、初めて会った人なのに、以前どこかであったことがあるような感じがして、初めて会った感じがしないというような体験をすることがあります。
「デジャヴュ(既視感)」という言葉はよく、この場所は過去世で来た場所だとか、この人は前世で一緒だった人だとかいうような感じで使われたりしています。
しかし、『ここは「追想の中」での「追体験」』、こちらの記事の中でも書きましたが、「デジャヴュ(既視感)」というのは、本当はもっともっと奥が深く、意味深いものなのです。
何故なら、私たちは今、「追想の中」を生きており、「追想の中」の世界を「追体験」しているからなのです。
多くの人たちは、時間というものが過去→現在→未来へと流れており、今この瞬間に存在している世界は、今初めて大宇宙に存在していると考えているかも知れません。
そして、時間というものが過去→現在→未来へと流れているので白紙の未来があるかのように考えている人も多いかも知れません。
しかし、『未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているもの』、こちらの記事の中でも書きましたが、未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものなので、既に100パーセント確定して存在しているものなのです。
究極的には時間というものは存在しておらず、過去も未来も今同時に存在しており、大宇宙の全てが元々存在しているのです。
時空を超越した大宇宙の本質の世界(絶対世界)においては、大宇宙の全てが元々存在しています。
そして、時空を超越した大宇宙の本質の世界(絶対世界)の「映し世(うつしよ)」としての物理的大宇宙(相対世界)の中の、ある「時間軸と空間軸」の中に私たちはいます。
すなわち、21世紀の地球という、ある「時空」の中に私たちはいるのですが、この時空は今初めて大宇宙に存在している訳ではなく、元々存在していた時空なのであり、今私たちは、それを「追体験」しているということなのです。
分かりやすく簡単にイメージしていただくならば、再生されたDVDの映画を再び見ているようなものかも知れません。
あるいは、再生された3Dホログラムの映像を再び見ているようなものかも知れません。
言わば、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出された再生ビデオを見ているようなものなのです。
私たちが見ている、21世紀の地球というこの「時空」は、敢えて言うならば、再生されたDVDの映画、あるいは再生された3Dホログラムの映像のようなものなので、実はこの世界というのは、かつて私たちが見たことがある世界、体験したことがある世界なのです。
今初めて見ている世界、今初めて体験している世界ではないということなのです。
ただ、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、そのことはよく分かりません。
何故なら、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にある意識であり、氷山の一角のようなものにしか過ぎないからです。
肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)というのは、意識の一番浅い部分にある意識であり、氷山の一角にしか過ぎませんが、水面下においては、潜在意識・無意識と呼ばれるような部分もあり、私たちの意識を一番奥深くまで遡っていくと、最終的には、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」までたどり着くことになります。
ですから、私たち一人ひとりは、意識の一番奥深くにおいては、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしています。
何故なら、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したというだけでなく、この時空はかつて存在した時空であり、その時に体験をして、既に知っているからなのです。
魂の記憶が蘇ってきて、ここが「追想の中」だということを想い出せるようになると、様々なことにデジャヴ(既視感)を覚えるかも知れません。
それは単に、人や場所に対してだけではなく、自分が味わった一つひとつの体験や、あるいは、自分が味わった一つひとつの感情に対しても、かつて味わったことがあるという「懐かしさ」を覚えるかも知れません。
そして、過去世うんぬんということに留まらず、過去には無かった現代のものや、現代から見て未来にあたるようなことまで含めて、あらゆることに対してデジャヴ(既視感)を覚えたとしても、決して不思議なことではないのです。
何故なら、私たちが生きている、21世紀の地球というこの時空そのものが、かつて存在した時空なのであり、私たちがかつて体験した世界だからなのです。
魂の記憶が蘇ってくると、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。
我が魂は、未来で体験する全て、未来で味わう感情の全てを、既に知っています。
何故なら、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したというだけでなく、この時空はかつて存在した時空であり、その時既に体験をして、知っているからなのです。
本源の我、真我である我が魂は、自分がこれから人生で体験する全て、死に至るまでの自分の人生の全てを、既に知り尽くしています。
魂の記憶を蘇らせることができれば、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。
そして、魂の記憶が蘇ってきて、未来の記憶とでも呼ぶべきものも少しずつ蘇らせることができるようになってくると、それを「生きるという創造の旅」に使っていくこともできるようになります。
肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、未来のことはほとんど分かりません。
ですから、心と感じるままに、瞬間瞬間、自分が望むような創造をかけて生きていけば良いのですが、魂の記憶が蘇ってきて、未来の記憶とでも呼ぶべきものも少しずつ蘇らせることができるようになってくると、それを使って創造していくことができるようになってきます。
魂の記憶を蘇らせることができるようになってくると、未来の記憶を蘇らせて、それを瞬間瞬間の創造に使って生きるということも少しずつできるようになってきます。
肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、未来のことはほとんど分かりませんが、真我である魂は、死に至るまでの自分の人生の全てを既に体験して知り尽くしていますので、魂の記憶を想い出して蘇らせ、それを瞬間瞬間の創造に使うことも少しずつできるようになります。
魂の記憶としての真のデジャヴ(既視感)を感じることができれば、それを瞬間瞬間の創造に使って生きていくことができるようになってきます。
真のデジャヴュ(既視感)とは、魂の記憶が蘇り、ここが「追想の中」の世界であり、それを今「追体験」しているのだということを想い出した時に感じられるものなのです。
未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定して存在しているものなのです。
私たちは、元々存在している未来、かつて体験して知っている世界を、これから再び体験していくだけなのです。
私たちは、かつて体験した世界を今、「追体験」しているのであり、今、「追想の中」を生きているのです。
21世紀の地球という、今ここにある時空は、今初めて大宇宙に存在している訳ではなく、元々存在している時空なのであり、かつて存在した時空でもあるのです。
そして、私たちは、かつてこの時空を体験したことがあり、意識の深い部分においては、既に知っている世界なのです。
『ここは緑美しき懐かしき地球(追想の中)』、こちらの記事の中でも書きましたが、21世紀の地球という、今ここにある座標軸は、実は、かつて存在した「懐かしき」時空なのであり、ここは「追想の中」にある、「緑美しき懐かしき地球」なのです。
ワンネスの意味について精神世界やスピリチュアル系のグループがしている間違い解釈
よく、精神世界やスピリチュアル系と呼ばれるようなグループの人たちの中には、ワンネスという言葉に囚われている人たちも多いのではないかと思います。
ワンネスという言葉は、「全ては一つ」とか、「あなたは私、私はあなた」というような意味で、よく使われているかと思います。
しかし、その本質的な意味が全く理解されないまま、ただ「ワンネス」という言葉だけが勘違いされた状態で一人歩きしているような印象を受けます。
精神世界やスピリチュアル系と呼ばれるような世界に関心のある人の中で、ワンネスという概念に囚われている人は、勘違いしないように注意することが大切です。
特に気を付けなければいけないのが、「あなたは私、私はあなた」という言葉です。
『真のワンネスとは』、こちらの記事の中でも書きましたが、「あなた(他)は私(自)」というのは、「自(私)」と「他(あなた)」が分かれた思考形態であり、それは真のワンネスと呼べるものではありません。
というより、「あなた(他)は私(自)」という、「自(私)」と「他(あなた)」が分かれた思考形態というのは、真のワンネスとは正反対の考え方になります。
「あなた(他)は私(自)」と言った時点で、「他(あなた)」と「自(私)」が切り離された考え方であり、それは真のワンネスと呼べるものではありません。
真のワンネスとは、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけなので、物理的大宇宙に存在する全ての被創造物、そして大宇宙の森羅万象の全ては「大宇宙意識の顕れ」にほかならず、全てはつながっているということなのです。
そういう意味においては、「全ては一つ」という言葉自体は、決して間違いではありません。
しかし、多くの人たちは、「全ては一つ」なので、「あなたは私、私はあなた」であると考えて、意味を取り違えてしまいます。
そして、「あなたは私、私はあなた」だから、「あなたと私は同じである」と錯覚して、「あなたと私はお互いに理解し合うことができる」という勘違いをしてしまいます。
ここが、気をつけなければいけないポイントになります。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂です。
自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものがない、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、ある一つの角度・「視点(してん)」から、この大宇宙を映し出して見ている一つの「支店(してん)」なのです。
そして、私がいつも言っているように、自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の意識が映し出された自分の内面の世界なので、太陽も月も星も、銀河の果てまでが自分の意識の中にしか存在していません。
ですから、自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分一人の世界なので、自分が映す現実世界(大宇宙)の全てが自分自身であるとも言えます。
しかし、さらに言うならば、自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分すらいない世界なのです。
『本当は誰もいない――ただ大宇宙がある』、こちらの記事の中でも書きましたが、自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分一人の世界なのですが、自分というものすら、本当はいるという訳でもないので、自分すらいない、誰もいない世界なのです。
何故なら、この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけだからです。
私たち一人ひとりそれぞれが、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものがない、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、ある一つの角度・「視点(してん)」からこの大宇宙を映し出して体験している、一つの「支店(してん)」なのです。
私たち一人ひとりが、この大宇宙に二つとして同じものがない、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って生かされていますので、私たち一人ひとりは、この大宇宙に二つとして同じものがない、自分の「魂・精神・肉体」を与えられています。
私たち一人ひとりの「魂・精神・肉体」は、この大宇宙に二つとして同じものがないので、私たち一人ひとりが瞬間瞬間に体験している思考・感情・行動は全て違っていますので、私たちは本当の意味で真に理解し合うということはできません。
例えるならば、私たち一人ひとりは、大海に浮かぶ小さな島々のようなものです。
モルディブなどには、小さな島々がたくさんありますが、水面下においては、陸続きであり、深い部分では皆つながっています。
しかし、水面より上の部分では切り離されており、それぞれが固有の島を形成していますので、二つとして同じ島はありません。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけです。
私たち一人ひとりの意識を一番奥深くまでたどっていくと、最終的には、大宇宙意識までたどり着くことになります。
ですから、意識の一番奥深くにある大宇宙意識という部分では、私たち一人ひとりは皆つながっていますので、「全ては一つ」であると言えます。
しかし、モルディブの小さな島々が水面より上の部分では、それぞれ切り離されて固有の島を形成しているように、私たち一人ひとりは、この大宇宙に二つとして同じものがない、自分の「魂・精神・肉体」を与えられて、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持っていますので、表面的には、私たち一人ひとりは、真に理解し合うことはできないのです。
肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、自分以外の人を真に理解することはできませんので、例え親・兄弟・夫婦であっても、一卵性双生児の双子であっても、真に理解しあうことはできません。
例え親・兄弟・夫婦であっても、一卵性双生児の双子であっても、それぞれが大宇宙に二つとして同じものがない、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、大宇宙に二つとして同じものがない「魂・精神・肉体」を与えられて、それぞれの役割の中で生かされていますので、真に理解し合うことはできないのです。
私たち一人ひとりは、皆違うということなのです。
このことが理解できるようになると、人から真に理解されたいという思いがだんだん薄れていきます。
それと同時に、自分は自分以外の人を真に理解することはできないのだということも分かるようになります。
例え自分の親・兄弟・夫婦であっても、自分に一卵性双生児の双子がいたとしても、それぞれが大宇宙に二つとして同じものがない、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、大宇宙に二つとして同じものがない「魂・精神・肉体」を与えられて生かされていますので、一人ひとりの瞬間瞬間の思考や感情は皆違いますし、肉体は別々なので、体験は一人ひとり皆違っています。
精神世界やスピリチュアル系の世界が好きな人たちは、「ワンネス」という言葉の真の意味も分からないまま、「全ては一つ」とか、「あなたは私、私はあなた」という言葉に陶酔している人たちも見受けられます。
そして、「全ては一つ」で「あなたは私、私はあなた」だから、お互いに理解し合えると勘違いしています。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけです。
物理的大宇宙に存在する全ての被創造物、そして大宇宙の森羅万象の全ては、「大宇宙意識の顕れ」なのです。
大宇宙意識という「純粋意識」は、この大宇宙に無数に存在する全ての「支店=視点(してん)」を通して、自分自身を体験して味わっているのです。
私たち一人ひとりは、この大宇宙に二つとして同じものがない、自分唯一の「支店=視点(してん)」をそれぞれが受け持っていますので、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)のレベルでは、自分以外の人を真に理解するということもできませんし、また、自分以外の人から真に理解されるということもできないということを認識することが大切になります。
映る世に心を傾けないことが大切で、全てはただ自分を解放するプログラムとして存在しているだけ
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★映る世に心を傾けない
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しています。
ですから、自分が映す現実世界に、例えどんな紋様が映っていたとしても、それは、本源の我であり、真我である我が魂が見たい世界であり、体験したい世界なのです。
全ては心の内の景色であり、言わば、幻です。
そこに存在しているかに見える全ての人や、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在しているだけです。
肉体の自我意識(表面意識)がとらわれている、自分という「我」を外し、自分を解放して、宇宙へと帰るプログラムとして、存在してくれているだけなのです。
ですから、自分が映す現実世界にとらわれ過ぎず、心を傾け過ぎない事が大切になります。
何かに強くとらわれたり、執着したりするところに答えがある訳ではなく、心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心になるところに答えがあるからなのです。
映る世に心を傾ける事なく、映る姿にとらわれる事なく、魂の進化と呼ばれる、自分を解放して宇宙へと帰る旅のプロセスを楽しんで行く事が大切になります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
後悔するという思考を消滅へと向かわせることは、心の進化につながる
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★後悔するという思考を消滅へと向かわせる
人生の基本となるテーマは、魂の進化という事であり、魂の進化というプログラム上にしか私達の人生は存在していませんので、自分の人生で起きる全ての事は、魂の進化の為に起きているという事になります。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、全ての出来事を「想像=創造(そうぞう)」しているのです。
そして、全ての出来事は、魂の進化という視点に立てば、最善の出来事なのであり、私達の人生とは、最善の出来事の連続でしかありません。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識)では分からなくても、自分の今までの人生の全ては、魂の進化にとって最善の出来事の連続だったのであり、何一つ後悔する事もありません。
後悔するとは、悪い結果に対して後で悔いるという事ですが、悪い結果と捉えたのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識)なので、本源の我、真我である我が魂から見れば、魂の進化にとって最善の出来事でしかありません。
天の仕組みとして、魂は進化するしかないので、魂が進化する場合と進化しない場合がある訳ではなく、常に進化を続けており、我が魂は、全ての出来事、全ての体験を使って、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいるのです。
自分にとって如何なるものであったとしても、後悔する必要はなく、「もしあの時、こうしていれば、今は違った状況なのに・・・」という仮定も存在していません。
自分の今までの人生の全ては、魂の進化にとって最善の出来事の連続だったのであり、これからの人生も、魂の進化にとって最善の出来事が連続していくだけなのです。
後悔するという思考を消滅へと向かわせる事は、心の進化につながります。
自分の人生にとって、如何なるものであったとしても、後悔する必要はなく、全ての出来事、全ての体験を使って、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいる、本当の自分自身というものを、信じる力が大切になります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
自分の人生の真の創造主は自分自身なので、人のせい、社会のせいなど存在しない
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★人のせい、社会のせいなど存在しない
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、全ての出来事を「想像=創造(そうぞう)」しています。
そして、全ての出来事は、魂の進化にとって最善の出来事の連続でしかありません。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識)では分からなくても、自分の現実の全ては、本当の自分自身が創造したものなので、誰のせいでもなく、人のせい、社会のせいなど存在しません。
自分の人生の全ては、親のせいでもなければ人のせいでもなく、会社のせいでもなければ社会のせいでもなく、ましてや、天の神仏や、霊、カルマのせいでもありません。
自分に起きた出来事を、霊やカルマのせいにするのは、制限された創造の一つです。
自分の現実の全ては、本当の自分自身が創造しているのだという事が分からずに、霊やカルマのせいにして理解しようとする段階の意識なのです。
そのような意識から抜ける事が大切です。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我、真我である我が魂であり、我が魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識の分霊として、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つを受け持って、ある一つの角度・視点から大宇宙を映し出し、大宇宙を体験して味わっている存在なので、自分の現実の全ては、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
自分の人生の真の創造主は、他ならぬ自分自身なのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
困る出来事が本来ある訳ではなく、困る考え方をしているのでそのことに困っているだけ
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★困る出来事あらず
我が人生の主体者・創造者は、我が魂です。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に最善の事として、全ての出来事を「想像=創造(そうぞう)」しています。
ですから、困る出来事と感じられるような事が起きたとしても、本源の我であり、真我である我が魂の目から見れば、最善の出来事が起きているにしか過ぎません。
困る出来事と捉えているのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識)であり、困る考え方をしているので、その事に困っているだけなのです。
困る出来事を、困らない状況へと持って行ったところに答えがある訳ではなく、困る出来事も、実は、困らないのだと認識出来るところに答えがあるのであり、それを創造力として使っていけば良いという事になります。
肉体の自我意識(表面意識)がとらわれている、困難となる感情を外し、困る出来事というものが本来ある訳ではないと気付いていく事が、心の成長であり、それが創造力につながります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
新著『大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム』『花咲く都・黄金文明』のページをリニューアルしました!
新著『大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム』『花咲く都・黄金文明』のページをリニューアル致しました!
『大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム』 『花咲く都・黄金文明』
B6版 283ページ B6版 297ページ
発 行 大和富士ブックス
製本版 本体価格1800円(送料込)+税
ダウンロード版 本体価格1000円+税
新著『大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム』発売に伴い、『花咲く都・黄金文明』のページと併せて、書籍のサイトをリニューアル致しました!
新著『大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム』と『花咲く都・黄金文明』は姉妹書となっています。
この21世紀に私たち日本人が、地球の新しい精神文明、花咲く都・黄金文明を花開かせる為に知っておくべき、最も本質的な内容のことが書かれています。
今回の新著2冊は、POD(プリント・オン・デマンド)方式にて発売致しますが、POD(プリント・オン・デマンド)方式は、電子時代の全く新しい出版方法です。
テクノロジーの進化により、出版の形態も多様化してきており、POD(プリント・オン・デマンド)方式を使えば、これからは、作家やマンガ家などが、出版社を通さずに、自ら出版社になれる時代が到来しています。
既に著名な人気マンガ家の中にも、POD(プリント・オン・デマンド)方式を使って、出版社を通さずに自らが出版社としてマンガを発行している方もあるように、これからの出版の新しい形態の一つになります。
具体的には、注文ボタンからの注文が確定し、決済が終わると同時に、今行われた注文の製本が1冊単位で即座に行われ、注文されたお客様の元に直接郵送される仕組みになっています。
今回発売する新著2冊のPOD(プリント・オン・デマンド)方式の決済は、クレジットカード決済もしくはPayPal決済となっておりますので、銀行振込での決済をご希望の方は、銀行振込決済用の注文ボタンからご注文をお願い致します。
POD(プリント・オン・デマンド)方式の決済手段は、今後、コンビニ決済、楽天ID決済など、順次増えていく予定です。
ある意味においては、情報というものほど大切なものは無いと言っても過言ではありません。
正しい情報を元にして行動すれば、多くの時間やお金・エネルギーなどを節約することが出来ます。
その一方、間違った情報を元にして行動すると、多くの時間やお金・エネルギーなどを無駄に使うことにもなりかねません。
今、私たち人類は、有史以来数千年続いた、人類の古い歴史の最終局面を迎えています。
あと十数年から二十年前後で人類の古い歴史が幕を閉じ、人類の新しい歴史が幕開けする時を迎えようとしています。
私たち人類を待っているのは、想像だにない新しい世界なので、このような時代には、地球の新しい時代を指し示す役割を持った、本質的な正しい情報が、何よりも大切になります。
書籍『大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム』のページはこちらからどうぞ
ここは「意識」の海の中であり、意識が「想像=創造」したバーチャルリアリティーの世界
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★ここは「意識」の海の中
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、自分の「意識」が創り出した世界です。
大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
ですから、自分の目に映る現実世界(物理的大宇宙)の全ては、自分の「意識」が投影された、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドなのです。
自分の目に映る現実世界(物理的大宇宙)の全ては、太陽も、月も、星も、銀河の果てまでが、自分の「意識」の中にある世界であり、自分自身の「意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
ここは、「意識」の海の中です。
自分の目に映る現実世界(物理的大宇宙)の全ては、銀河の果てまでが、自分の「意識」の海の中なのです。
私たちは、自分の「意識」の海の中を、泳いでいる(遊んでいる?)とも言えるかも知れません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
「意識」というものは、それを映し出す「鏡」が必要であり、それが物質世界という「映し世」
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★「意識」というものは、それを映し出す「鏡」が必要
「意識」が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事です。
そして、「意識」には、それを映し出して体験する為の「鏡」が必要であり、それが、物質世界という、言わば、「映(うつ)し世」なのです。
自分の顔や姿・形を知る為には、「鏡」が必要になります。
映し出す「鏡」が無いと、自分がどんな顔立ちや表情、姿・形をしているのかが分かりません。
それと同じように、「意識」というものは、それを映し出す「鏡」が必要なのです。
映し出す「鏡」が無いと、「意識」というものは、自分自身がどんな状態なのかが分からないのです。
「意識」が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為に「創造(そうぞう)」されている「鏡」の世界、言わば、「映(うつ)し世」が、物質世界というバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
物質世界というバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界での体験を通して、「意識」というものは、自らが「想像(そうぞう)」したイメージを、確認することが出来るのです。
言わば、「意識」というものが、自分自身を知ることが出来る訳なのです。
「意識」が行っている「想像(そうぞう)」という仕事は、同時に、物質世界に「創造(そうぞう)」されています。
「意識」が行う「想像(そうぞう)」と、物質世界における「創造(そうぞう)」とは、セットであり、表裏一体、密接不可分の関係として、同時に存在しているのです。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したことは、同時に、物理的大宇宙(相対世界)に「創造(そうぞう)」されています。
同様に、大宇宙意識の分霊(わけみたま)である、我が魂という「意識」が「想像(そうぞう)」した事は、同時に、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)に「創造(そうぞう)」されているのです。
「意識」が行っているのは、「想像(そうぞう)」することであり、自らが「想像(そうぞう)」したイメージを、物質世界に「創造(そうぞう)」して、バーチャルリアリティー(仮想現実)の中で、体験して確認することなのです。
大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を、体験して、味わっているのが、自分という存在なのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
物質世界を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★物質世界を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」
物質世界を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」なのです。
この大宇宙に、本当に実在しているのは、大宇宙意識という「純粋意識」だけなのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識という「純粋意識」により、「想像=創造(そうぞう)」されたものなのです。
唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識が、絶対世界において「想像(そうぞう)」したイメージが、大宇宙意識の光により物質化されて、物理的大宇宙(相対世界)に「創造(そうぞう)」されているのです。
何か確固たる実体があるもののように感じられる物質というものも、本当は、何も確かな実体がある訳ではなく、大宇宙意識の全知全能の光が織り成すバーチャルリアリティー(仮想現実)であり、言わば、幻なのです。
物理的大宇宙(相対世界)の全ては、大宇宙意識という「純粋意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
そして、本源の我であり、真我である、我が魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つであり、ある一つの角度・視点(してん)を受け持って、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
ですから、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、大宇宙意識の分霊である、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
物理的大宇宙(相対世界)の全てを「想像=創造(そうぞう)」している源は、根本主体である、大宇宙意識という「純粋意識」です。
そして、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全てを「想像=創造(そうぞう)」している源は、大宇宙意識の分霊である、我が魂という「意識」なのです。
物質世界を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」というものなのです。
「意識」が「想像=創造(そうぞう)」したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界が、物質世界なのであり、物質世界とは、「意識」の中に存在しているものなのです。
物質世界の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に物質世界があるのです。
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。
「意識」が行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事であり、「意識」を映し出す「鏡」の世界が、物質世界という、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
「意識」の中に大宇宙があるのであり、大宇宙の中に「意識」が存在している訳ではない
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★「意識」の中に大宇宙がある
この大宇宙に本当に実在しているのは、根本主体である大宇宙意識のみです。
大宇宙の実相(本質)の世界である、絶対世界に唯一実在しているのは、大宇宙意識のみなのです。
大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である「純粋意識」なのです。
大宇宙意識は、「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、そのまま100パーセント、物理的大宇宙(相対世界)に「創造(そうぞう)」することが出来るのです。
物理的大宇宙(相対世界)とは、絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為の「映(うつ)し世」であり、「鏡」の世界なのです。
物理的大宇宙(相対世界)を存在させている大元は、大宇宙意識という、一つの「純粋意識」なので、物理的大宇宙とは、「意識」によって創られた世界なのです。
物理的大宇宙は、大宇宙意識によって創られた世界であり、大宇宙意識という「純粋意識」の中に存在している世界なのです。
物理的大宇宙(相対世界)の中に大宇宙意識(絶対世界)が存在している訳ではなく、物理的大宇宙(相対世界)の全ては、大宇宙意識という「純粋意識」(絶対世界)の中に存在しているものなのです。
物質というものを存在させている大元、物質界(物理的大宇宙)を創り出している大元は、「意識」というものなのです。
大宇宙の根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」の中に、物理的大宇宙の全てが存在しているのです。
本源の我であり、真我である、我が魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つであり、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
ですから、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、自分の「意識」の中にあるものなのです。
大宇宙意識の中に、物理的大宇宙が存在しているのです。
物理的大宇宙の中に、大宇宙意識が存在している訳ではありません。
同じことが、大宇宙意識の分霊である我が魂と、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)との関係についても言えることなのです。
物理的大宇宙の中に自分という存在がいて、その自分が「意識」を持っているのではありません。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、自分の「意識」の中にある世界なのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがある訳ではありません。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、実は、自分自身の「意識」の中にあるものなのです。
大宇宙意識の中に物理的大宇宙があるのであり、物理的大宇宙の中に大宇宙意識が存在している訳ではありません。
同様に、自分の「意識」の中に、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)が存在しているのであり、物理的大宇宙(現実世界)の中に自分の「意識」が存在している訳ではないのです。
もっと簡単に、分かりやすく言うならば、大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるということなのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識と、本源の我であり真我である魂との関係
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★大宇宙意識と本源の我
この大宇宙に本当に実在しているのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙意識のみです。
では、自分という存在は、何なのでしょうか?
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
我が魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙意識が持つ無数の「支店=視点(してん)」の中の一つなのです。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識と、本源の我である我が魂の関係を、コンピューターに例えるとするならば、大宇宙意識が巨大なホストコンピューターであり、我が魂は、ホストコンピューターから無数に出ている端末機の中の一つであると言えます。
自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)なので、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つなのです。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つを受け持って、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている存在なのです。
言わば、大宇宙に無数に存在するモニターの中の一つであり、大宇宙に無数に存在するテレビカメラの中の一つであるとも言えます。
大宇宙に二つと同じものが無い、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
大宇宙意識と本源の我は、本質において同じものであり、自分自身の中には、大宇宙の根本主体である大宇宙意識が持つ、「無限」の属性とでも言うべきものが、宿されているのです。
絶対世界に唯一実在する大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したことが、そのまま100パーセント「創造(そうぞう)」されているのが、相対世界である物理的大宇宙です。
そして、我が魂というのは、大宇宙意識の分霊なので、本源の我であり、真我である我が魂が「想像(そうぞう)」したことが、そのまま100パーセント「創造(そうぞう)」されているのが、自分が映す現実世界なのです。
自分の現実は全て、真我である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である我が魂なので、自分の人生の真の創造主は、本当の自分自身なのです。
相対世界である物理的大宇宙は、絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為の「映(うつ)し世」です。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識の顕れなので、大宇宙意識は、ありとあらゆる全ての角度、全ての「支店=視点(してん)」から、自分自身を体験して味わっているのだとも言えます。
大宇宙意識の分霊として、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つを受け持って、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっているのが、本源の我であり、真我である、我が魂なのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
思い通りでないところが、真我である魂にとっては全て思い通りだと気付くことが大切
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★思い通りでないところが、全て思い通りだと気付く
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に最善の事として、全ての出来事を「想像=創造(そうぞう)」しています。
本源の我であり、真我である我が魂の目から見れば、人生の全ては思い通りであり、我が魂の夢は100%叶っているのだと言えます。
例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、思い通りでないように感じられたとしても、我が魂の目から見れば、全ては思い通りなのです。
魂は、自らの更なる輝きを求めて、自分自身が最も進化・成長出来る、最適な状況を「想像=創造(そうぞう)」します。
そして、魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事とは違います。
魂にとっては、心の器を大きくして、心を純化、意識を福化させる事だけが関心事なので、その為に必要と思われる最適な状況を創造します。
その中には、病気や怪我、お金を失う事、失恋・離婚、失業、失敗、社会的地位や名誉を失う事、人間関係を失う事など、一般的に、不幸・不運と呼ばれるような状況も多く含まれます。
一方、肉体の自我意識(表面意識)の関心事は、多くの人にとっては、健康・長寿、お金や富を得る事、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の家庭、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、素晴らしい人間関係など、一般的に、幸福・幸運と呼ばれるような状況かも知れません。
このように、肉体の自我意識(表面意識)の関心事と、魂の関心事には、差(ギャップ)がありますので、我が人生の主体者・創造者である魂の想いを感じ、魂の願いに意識を合わせていく事が大切になります。
肉体の自我意識(表面意識)から見れば、思い通りでないところが、実は、本源の我であり、真我である我が魂の目から見れば、全て思い通りなのだと気付く事が大切になります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
自分の現実は真我である魂が「想像=創造」した心の内の景色であり、全て幻、全て問題なし
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★全て幻、全て問題なし
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に最善の出来事を「想像=創造(そうぞう)」しています。
例え、肉体の自我意識(表面意識)ではその事が分からず、不幸・不運・困難と思えるような状況が感じられたとしても、全ては、本源の我であり、真我である我が魂が見たい世界、体験したい世界なのであり、全ては心の内の景色、言わば、幻なので、何も問題がある訳ではないのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
魂の進化としての道の最短距離を突き進んでいる自分自身と人生の流れを信頼する
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★魂の進化としての道の最短距離
私達の人生の基本テーマは魂の進化という事であり、魂の進化というプログラム上にしか私達の人生は存在していませんので、人生で起きる全ての事は、我が魂の進化の為に起きているという事になります。
そして、我が魂は、魂の進化としての道の最短距離を突き進んでいます。
天の仕組みとして、魂は進化するしかないので、魂が進化する場合と進化しない場合がある訳ではなく、常に進化を続けており、魂の進化としての道の最短距離を突き進んでいるのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
我が魂が、光り輝く魂になる事を求めて、魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しています。
自分の人生に起きる全ての事は、魂の進化の為に最善の事が起きているのであり、最善の事の連続でしかありません。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識)では分からなくても、自分の人生に起きる全ての事は、魂の進化の為に最善の事が起きているのであり、我が魂は、全ての出来事、全ての体験を使って、魂の進化としての道の最短距離を突き進んでいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
永遠の旅をしている我が魂の夢を想い出すことが大切
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★永遠の旅をしている我が魂の夢
本源の我であり、真我である、我が魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、永遠不滅の存在です。
我が魂は、肉体という乗り物を使って遊びながら、永遠に続く「意識」の旅をしている存在なのです。
永遠の旅をしている我が魂の夢は、唯一点、魂の進化ということであり、光り輝く魂になるということなのです。
我が魂は、魂のさらなる輝きを求めて、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているのです。
今ここに存在している自分というのは、アバターとして存在していますので、本源の我である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した世界を、体験して味わう為に、肉体の衣を纏(まと)って存在しているのです。
ですから、真我である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した世界を、きちんと体験して味わうということが大切になります。
それと同時に、自分の体験を通して、本源の我であり、真我である、我が魂の夢を想い出すということが大切になります。
我が魂の夢とは、魂の進化ということであり、光り輝く魂になるということなのです。
心を純化させ、「意識」を福化させることが望みなのです。
心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことが望みなのです。
創造の主体者である我が魂にとっては、体験こそが、喜びであり、財産であると言えます。
我が魂という「意識」は、肉体を持ったアバターでの体験を通して、心の純化、「意識」の福化の旅をしている訳なのです。
そして、本源の我である魂の夢を想い出し、さらに光り輝く魂となるのが望みなのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
アバター(分身・化身)としての自分を理解することが大切
アバター(分身・化身)としての自分自身を理解することが大切だと思います。
多くの人たちは、肉体を持った自分が本当の自分自身だと考えていますが、肉体を持った自分というのは、あくまでも、真我である魂の分身・化身として存在している、アバターにしか過ぎません。
多くの人たちは、私たちが見ている物理的大宇宙を、何か確固たる実体があるもののように考えていますが、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、言わば、幻の世界なのです。
私たちが見ている物理的大宇宙とは、大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界の「映(うつ)し世」として創造されている、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という、一つの「純粋意識」だけです。
私たちが見ている物理的大宇宙とは、大宇宙の仮相(仮の姿)の世界であり、実相(本質)の世界ではないので、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界なのです。
そして、本当の自分という存在は、大宇宙の根本主体・根本創造主である、大宇宙意識という「純粋意識」の分霊(わけみたま)になります。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
自分の人生の全ては、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
そして、肉体を持った自分というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、真我である魂が、自らが「想像=創造(そうぞう)」したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為に使っている、アバター(分身・化身)にしか過ぎません。
多くの人たちは、肉体を持った自分が本当の自分で、肉体の中に魂があると考えていますが、肉体の中に魂があると考えるのは、これまでの宗教的世界観からきたものであると言えます。
自分が映す現実世界の全てが、仮想の世界であり、バーチャルな世界であることが分かると、魂が自分の肉体の中にあるという想定は、これまでの宗教的世界観からきたものにしか過ぎないことが分かります。
魂は何処にあるかと言うと、自分が映す現実世界(物理的大宇宙)の全ては、自分の「意識」の中にあるものなので、魂を自分の肉体の外に想定した方が、本来の魂の姿に近いのだと言えます。
自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがあり、その中の小さな地球という星にある、日本という国の中に、肉体を持った自分が存在していて、自分の肉体の中に、真我である魂という「意識」が存在している訳ではありません。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、アバター(分身・化身)にしか過ぎず、アバター(分身・化身)である肉体の中に、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂という「意識」が存在している訳ではないのです。
私たちが見ている物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、肉体を持った自分という存在は、真我である魂という「意識」が「想像=創造(そうぞう)」したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為に存在しているアバター(分身・化身)にしか過ぎないことが分かれば、生きるよろこび、生命の輝きというものを、もっと楽しめるようになります。
『今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない』、『魂を自分の肉体の外に想像』、『多次元に生きる、本源の我』、『永遠の旅をしている我が魂の夢』、『魂にとっては、体験こそが喜びであり財産』などの記事も、ぜひご参照ください。
不幸というものがある訳ではなく、それを幸福と思えない心がそこに残っただけ
幸福という概念は、不幸という概念とセットになった考え方です。
何かを幸福と思う考え方は、そうでないものを不幸と思う考え方とセットになっています。
幸運・不運という概念もそうです。
何かを幸運と思う考え方は、そうでないものを不運と思う考え方とセットになっています。
しかし、幸・不幸、運・不運というのは、自分自身がそう考えただけのことであり、あくまでも、自分自身の認識でしかありません。
何かを幸福・幸運と捉え、あるいは、何かを不幸・不運と捉えても、自分がそのように捉えただけのことであり、それが本当にそうなのかは、本当のところは、よく分からない筈です。
全ては、自分自身が決めたことなのです。
幸福とか不幸というのは、どこまでも自分が決めたことであり、自分自身の認識の中にしか存在していません。
不幸というものがある訳ではなく、それを幸福と思えない心が、そこに残っただけなのです。
それもまた幸福なのに・・・・・。
見方を変えれば、あるいは、拡張した意識になれば、それもまた幸福なのに、ということになります。
今の人類の意識では、自分にとって心地良い状態を幸福と呼び、そうでない状態を不幸と呼んでいます。
ある状態を幸福と呼び、ある状態を不幸と呼んで分けています。
これから人類が向かおうとする新しい意識では、幸・不幸という概念が消えていきます。
幸福というのは、自分の心が感じるものなので、あらゆることを喜びと感じられる意識を創ることが出来れば、幸・不幸という概念が消えていくのです。
そして、ある状態は幸福、ある状態は不幸と分けて考えることが出来なくなり、全ては喜びとなります。
本当は、不幸というものがある訳ではなく、それを幸福と思えない心が、そこに残っただけなのです。
それもまた幸福なのに・・・・・。
以前書いた『幸不幸という概念を超える』もご参照いただければ幸いです。
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本当の夢を想い出す為の書――書籍「魂の夢、光り輝く魂」
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、本当の夢を想い出す為に、とても役に立つ書となっています。
本当の夢とは、心の夢ではなく、魂の夢であり、魂の夢を想い出す為の最良の書ともなっています。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂です。
自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。
心が思い描く夢というのは、真我である魂の夢を想い出す為のツールのようなものです。
多くの人たちが、心に思い描く夢というものを、一般的な言葉で表現するとしたら、健康・長寿、お金や富を得ること、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の家庭、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、素晴らしい人間関係、というようなことになるのかも知れません。
それらの夢を心に思い描くこと自体は、意識を創る旅のプロセスには必要なことであり、心の夢を持つからこそ、魂を進化させていくことが出来るのですが、心の夢というのは、あくまでも、本当の夢ではなく、真我である魂の夢、本当の夢を想い出す為に、魂が使っているアプリケーションのようなものなのです。
心が思い描く様々な夢の方に答えがあるのではなく、真我である魂の夢、本当の夢の方に、答えがあるのです。
真我である魂が望んでいるは、「豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる」ことを夢見ているのです。
自分が体験する全ての現実は、「豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる」のを体験する為に、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
自分が映す現実世界は全て心の内だと分かり、「豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる」のを体験する時、光り輝く魂になることを夢見て、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出すことになるのです。
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新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」の後書きを、ご紹介致します!
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」の後書き(おわりに)を、ご紹介致します!
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」
人類は、異星人エロヒムを「神」と間違えた!
おわりに
本書「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」をお読みいただいた感想は、如何でしたか?
私たち人類が、何千年もの長い間、地球の全生命の創造主にしか過ぎない「異星人エロヒム」を「大宇宙意識(無限)」と間違え、二つの概念を混同してきたことは、お分かりいただけたかと思います。
私たち人類は、何千年もの長きに亘って、「神」というものについて、二つの概念を混同してきたのです。
しかし、真実が啓示される時代、アポカリプス(黙示録)の時代を迎えて、全てを科学的に理解可能となる現代までは、それも必要なプロセスでした。
エロヒムが、神という「隠れ蓑」を使ったのは、エロヒムの壮大な計画の一部でもあり、全てを科学的に理解出来る時代を迎えるまで、私たち人類には、崇め奉る絶対的な神の存在は、むしろ、必要だったのです。
モーゼや仏陀、イエス・キリスト、マホメットなどの古代の預言者たちは、全てを科学的に理解出来る時代を迎えるまでは、宗教という「松葉杖」を必要とする人類の為に、エロヒムから遣わされた、偉大なメッセンジャーたちでした。
しかし、真実が啓示される時代、アポカリプス(黙示録)の時代を迎えて、全てを科学的に理解出来るようになった今、もはや、伝統的宗教が果たしてきた役割は、終焉の時を迎えようとしています。
近い将来、私たち人類が、神(エロヒム)を見る日が到来します。
エロヒムの偉大なる帰還が実現し、ヤーウェを中心とするエロヒムが、宇宙船に乗って、公式に地球を訪問する時代が到来するのです。
その時、イエス・キリストを始め、モーゼや仏陀、マホメットなど、古代の預言者たちも、一緒に地球にやって来ることになるでしょう。
私たち人類は、エロヒムの25000年も進んだ科学を遺産として伝授される恩恵により、地球の新しい精神文明、花咲く都・黄金文明を花開かせることになります。
キリスト教の世界で言われる、至福千年王国のことでもあり、私たち人類の黄金時代が幕開けするのです。
そして、地球は宇宙時代を迎えます。
何れ、私たち人類も、他の惑星に出掛けて行き、生命を創造するようになるでしょう。
そして、他の惑星で生命を創造した時、今度は私たち人類が、「天空から飛来した人々」と呼ばれることになります。
時間においても空間においても「無限」の大宇宙の中で、過去から「無限」に続いてきた「生命創造の営み」を、親であるエロヒムから受け継ぎ、今度は私たち人類が創造者となる時を迎えるのです。
西暦2015年(平成27年)8月吉日 大和富士
参考文献
ラエル「真実を告げる書」 無限堂
ラエル「地球人は科学的に創造された」 無限堂
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新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」の前書きをご紹介致します!
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」の前書き(はじめに)を、ご紹介致します!
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」
人類は、異星人エロヒムを「神」と間違えた!
はじめに
「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」という本書のタイトルを最初にご覧になった時、どのような印象を受けられたでしょうか?
なんだか変なタイトルの本だな、と感じられた方も多いかも知れません。
しかし、「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」というのは、私たち人類が、有史以来数千年もの長い間、神という概念について混同してきた、神を表す二つの本質的な言葉なのです。
神という言葉から、人々は、どのようなイメージを想像するでしょうか?
多くの人たちは、無形で超自然で全知全能の存在、言わば、大宇宙の根本主体、大宇宙の根本創造主のような存在をイメージするかも知れません。
また一方では、人々は、日本の神話に登場するような、様々な神々を想像するかも知れません。
神道というのは、八百万神(やおよろずのかみ)を信仰する多神教であり、古事記などの神代の神話には、私たちと同じように姿・形を持ち、感情を持った、人間味溢れる様々な神々が登場します。
例えば、国生みをされたイザナギとイザナミの夫婦神、そして、二神から生まれたアマテラスやスサノオなど、様々な神々が登場します。
日本の神話だけではなく、ヒンズーの神話や、ギリシャ神話など、世界各地の神話には、人間味溢れる様々な神々が登場します。
また、神という言葉は使いませんが、仏教においても、私たち人間と同じような姿・形を持ち、慈悲深い表情をした仏像などで、仏を表現しており、中には、不動明王などのように、憤怒の相の仏像などもあります。
このように、私たちが一般的に、神という言葉を使う時、二つの概念が混同して使われていることに、お気付きになるかと思います。
一つは、無形で超自然で全知全能の、唯一絶対の至高の存在、言わば、大宇宙の根本主体・根本創造主に対して使われています。
この存在を表している言葉が、本書のタイトルにおける、「大宇宙意識(無限)」という言葉なのです。
そしてもう一つ、神を表す概念として、私たち人間と同じように姿・形を持ち、私たち人間と同じように感情を持ち、私たち人間とかつて直接関わりのあったような存在としての神々、神話に登場するような神々という概念があります。
この存在たちを表している言葉が、本書のタイトルにおける、「異星人エロヒム」という言葉になります。
実は、何千年もの長い間、私たち人類は、神というものについて、この二つの概念を混同してきたのです。
世界の主な宗教の源は一つであり、旧約聖書の「創世記」に出てくる存在たちが、そのルーツとなっています。
聖書においては、神(GOD)と訳されています。
しかし、聖書における神(GOD)という言葉は、誤訳なのです。
聖書において神(GOD)と訳されている元々の原語は、ヘブライ語のエロヒムという言葉であり、「天空から飛来した人々」を意味する、れっきとした複数形なのです。
単数形が、エロハという言葉になります。
「創世記」の中で、「神は御自分にかたどって人を創造された」と書かれているとおり、聖書における神(GOD)とは、私たち人間と同じような姿・形をした存在たちなのです。
無形の超自然の全能の神が、「創世記」における天地創造を行った訳ではなく、エロヒムという「天空から飛来した人々」、即ち、他の惑星からやって来た異星人たちによって、科学的に天地創造が行われたことを「創世記」は伝えていますので、実は、聖書というのは、世界最古の「無神論」の書なのです。
聖書における神(GOD)という言葉は、史上最大の誤訳だと言っても過言ではないかも知れません。
世界の主な宗教の源は一つであり、「創世記」において神(GOD)と訳されている存在たちが、そのルーツとなっています。
しかし、「創世記」における神(GOD)という言葉は誤訳なので、聖書における神(GOD)とは、ヘブライ語の原語で「天空から飛来した人々」を意味する、エロヒムという異星人たちのことなのです。
つまり、世界の主な宗教に登場する神とは、「異星人エロヒム」のことなのです。
無形で超自然で全知全能の、唯一絶対の存在、即ち、「大宇宙意識(無限)」のことが語られている訳ではありませんので、誤解しないように注意する必要があります。
宗教で語られている神とは、あくまでも、人類の創造者である「異星人エロヒム」のことなので、大宇宙の根本主体・根本創造主である「大宇宙意識(無限)」のことが語られている訳ではありません。
また、「創世記」を始め、日本の古事記や、世界各地の様々な神話には、天地開闢物語、宇宙開闢物語が登場します。
しかし、これらの全てはあくまでも、地球から見た天地創造であり、地球にとっての天地開闢物語、宇宙開闢物語なので、「無限」の大宇宙そのものの宇宙開闢が語られている訳ではありませんので、誤解しないように注意する必要があります。
「創世記」に書かれている天地創造が、他の惑星からやって来た人間たち、即ち、エロヒムという異星人の科学者たちによって、科学的に創造されたということは、科学が発達した現代になるまでは、理解することは出来ませんでした。
しかし、今や私たちは、真実が啓示される時代、アポカリプス(黙示録)の時代を迎えていますので、全てを科学的に理解可能な時代を迎えているのです。
無知蒙昧な神秘主義に陥ることなく、全てを科学的に理解し、真実を知るべき時を迎えています。
科学と宗教とは、対立する概念のように捉えられるきらいがありますが、実は、科学と宗教とは、同じ母親から生まれた兄弟のようなものなのです。
エロヒムは、今の地球の科学よりも25000年も進んだ高度な科学を持っており、この科学の力が、地球での生命創造を可能にしたものなので、科学と宗教とは、決して対立する概念ではなく、同じ母親から生まれた兄弟のようなものなのです。
私たち人類も、今や、宇宙ロケットを飛ばして、有人・無人での様々な宇宙探査を試みるとともに、遺伝子(DNA)の解読に成功し、クローン技術も獲得するなど、生命を創造出来るような科学力を身に付けてきています。
火星への移住計画なども進められており、オランダの民間プロジェクト「マーズワン」では、西暦2025年に、最初の四人を火星に移住させる計画だとのことです。
また、まだまだ先になりますが、「火星テラフォーミング」と言って、火星そのものに大気を作り、人類が住めるような惑星に作り変えてしまおうという、「地球化」、「惑星化」のプロジェクトまで取り沙汰されるような時代を迎えているのです。
地球の科学が、今よりももっと高度に進歩すれば、何れ私たち人類も、他の惑星に行って、生命創造の実験を試みるようになることは、容易に想像出来るのではないでしょうか?
世界の宗教で語られている神というのは、あくまでも、非常に高度な文明を持った、「異星人エロヒム」のことなので、大宇宙の根本主体・根本創造主である「大宇宙意識(無限)」とは、分けて考える必要があります。
そして、人類の創造者エロヒムが持っている唯一の宗教が、「無限」の宗教なのです。
エロヒムによれば、大宇宙というのは、時間においても空間においても「無限」なのであり、「無限」の大宇宙そのものへの畏敬の念、崇敬の念というものを、エロヒムは持っています。
「無限」の大宇宙そのものへの信仰心を、仮に、宗教という言葉で表現するとすれば、「無限」の宗教ということになるかと思いますが、私たち人類にとっての「神」であるエロヒムが崇敬しているのが、「無限」の大宇宙そのもの、言わば、「無限」なのです。
時間においても空間においても「無限」である、「無限」の大宇宙を生み出したのは、一つの「純粋意識」なのです。
本書においては、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った、一つの「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
私たち人類は、長い間、地球の全生命を創造した「異星人エロヒム」と、エロヒムが信仰している唯一の対象である「無限」の大宇宙そのもの、即ち、「大宇宙意識(無限)」とを、混同してきました。
時間においても空間においても「無限」である大宇宙そのもの、即ち、「大宇宙意識(無限)」と、地球の全生命の創造者にしか過ぎない「異星人エロヒム」とを、混同してきたのです。
人類が混同してきた、神についての二つの概念を、明確に分けて考えるべき時を迎えています。
自然という言葉が使われる時、無数の銀河や、太陽・月・星、母なる星・地球、海、大陸(大地)、植物、動物、私たち人間まで含めて、全てを「自然」と表現していますが、実際には、大陸(大地)と、植物・動物、そして私たち人間は、「異星人エロヒム」によって科学的に創造されたのだということを理解する必要があります。
「無限」の大宇宙そのものである「大宇宙意識(無限)」と、地球の全生命の創造者にしか過ぎない「異星人エロヒム」とを、明確に分けて考えるべき時を迎えています。
本書「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」は、人類が長い間混同してきた、神についての二つの概念を、明確に分けて理解する上で、とても有益な書となる筈です。
本書をお読みいただき、神についての二つの概念を、明確に分けて理解する一助としてご活用いただければ、これに勝る喜びはございません。
大和富士
参考文献
ラエル「真実を告げる書」 無限堂
ラエル「地球人は科学的に創造された」 無限堂
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新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」の内容について、お知らせ致します!
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」の内容について、お知らせ致します!
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」は、私たち人類が、数千年もの長い間、「神」というものについて混同してきた二つの概念を、明確に分けて解説した書であり、他に類例の無い書となります。
本書をお読みいただくことで、「神」という概念について、はっきりと理解することが出来るようになるでしょう。
新著「大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム」
人類は、異星人エロヒムを「神」と間違えた!
目 次
はじめに
地球の全生命の創造者は異星人エロヒム
神について人類が犯してきた誤り
自然には、二種類の自然がある
アポカリプス(黙示録)の時代――真実が啓示される時代
聖書における神とは、エロヒムという「天空から飛来した人々」
聖書における神(GOD)という言葉は、史上最大の誤訳
「創世記」に書かれた天地創造の真実とは
進化論は誤り――人間はサルから進化した訳ではない
地球は一般的に考えられているよりも、遥かに「若い」
アダムとイブは、実験室の中で科学的に創造された
エデンの園とは
楽園からの追放――エデンの園の「禁断の果実」とは
エデンの園の中央に生えていた「生命の樹」の秘密
不死の生命、永遠の生命
アダムからノアまでの人間たちが千歳位まで生きられた理由
ヤーウェとルシファーとサタン
聖書における神・天使・悪魔とは
「ノアの箱舟」と大洪水の神話は、本当にあった実話
人類にとっての聖なる記念日――七月一七日
祝福と契約
大洪水後、人類の歩みを助けたルシファーたちエロヒム
古代の預言者たちとは
不死の惑星――仏陀の「極楽浄土」、キリストの「天の王国」
モーゼと選民たちが交わしたエロヒムとの契約
「契約の箱」は、エロヒムとの通信機器だった
イエス・キリストの使命
イエス・キリストは、クローン人間として「復活」した
イエス・キリストの再臨とは
仏陀生誕の秘密とルシファー
仏陀が菩提樹の下で開いた「悟り」とは
マホメットとイスラム教
エロヒムの不死の惑星での再生――永遠の生命
エロヒムの偉大なる帰還――人類の黄金時代の幕開け
イエス・キリストの再臨と、至福千年王国
伝統的宗教が役割を終える時
人類の創造者エロヒムが持っている唯一の宗教は「無限」の宗教
地球の全生命は、「生物コンピューター」
宗教が持つ神秘性は、科学的に解明される時が来る
神界とは、地球に対しては「全能」のエロヒムの世界のこと
「無限」の大宇宙の中では、エロヒムも「宇宙の塵」に過ぎない
大宇宙の根本創造主は大宇宙意識(無限)
大宇宙意識(無限)という、もう一つの神
大宇宙意識という唯一の実在
絶対世界――大宇宙の実相(本質)の世界とは
相対世界――大宇宙の仮相(仮の姿)の世界とは
大宇宙意識が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事
永遠(とわ)の中今
時間の「無限性」について――無始の過去、無終の未来
大宇宙意識とは、不生不滅の実在
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
空間の「無限性」について――無窮(むきゅう)の空間
大宇宙の中に意識があるのではなく、意識の中に大宇宙がある
大宇宙意識を映し出す「鏡」――物理的大宇宙は「映(うつ)し世」
物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界であり、幻の世界
物理的大宇宙は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識の光の中
全ては、「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」
全ては、大宇宙意識の弥栄
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
宇宙的な観点の中では、善悪は存在していない
大宇宙意識とは、神や仏という概念を遥かに超えたスーパーな存在
全ては大宇宙意識の顕れ
大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーは一つ
大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))
全ては大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然無し
大宇宙の森羅万象の全てが、大宇宙意識によって営まれている
大宇宙の全てが、元々存在している
「想像=創造(そうぞう)」し得る限りの全てのものが、元々存在している
大宇宙は、元々が完成された、完全な世界
大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在している
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
大宇宙意識の全知全能の光が織り成す3Dホログラムの中
「意識」の一番奥深くに内在している大宇宙意識
大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム
人類は、異星人エロヒムを大宇宙意識(無限)と間違えた
創造者エロヒムが信仰しているのが、大宇宙意識(無限)
エロヒムも私たちも、「宇宙の塵」に過ぎない
大宇宙意識(無限)は、私たち人類に対して「永遠に無関心」
多くの人たちが考えているような「神」は存在しない
創造者であるエロヒムも、あくまでも人間
「創世記」が語っているのは、地球にとっての天地創造
光る円盤で飛来して来たエロヒムは、天空神として崇められた
遺伝子で不死の生命を操るエロヒムは、神と結び付いた
遺伝子(DNA)の二重らせんと、ルシファーのシンボル「蛇」
龍(ドラゴン)のルーツは、ルシファー(蛇)へのナーガ信仰
「蛇」をシンボルとするルシファーへの信仰
神とは、エロヒムにとっての「隠れ蓑」
アポカリプスの時代を迎えるまで、神という概念は必要だった
創造者エロヒムが、地球人に対して隠し通したこと
真実が啓示される現代まで、イエスの真意は理解不可能だった
イエスは、真実が啓示される「現代」の人々に向けて語っていた
エロヒムは地球の他に、他の二つの惑星で生命を創造した
最も高い知性を示した惑星が、エロヒムの遺産を伝授される
イエス・キリストが本当に言いたかったこと
創造者であるエロヒムが、私たち人類に望んでいること
大宇宙の中で「無限」に続いている生命創造の営み
宇宙時代の幕開け――人類が神(エロヒム)を見る日
「無限」の宗教――絶対の宗教、永遠の宗教
大宇宙意識(無限)と異星人エロヒム
おわりに
自分を解放するプログラム――自分の目に映る全ての人、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在しているだけ
私たちの人生には、基本となるプログラムが存在しています。
それは、魂の進化という基本プログラムであり、私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していません。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。
私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分が体験する全ての現実は、自分を解放するプログラムとして存在しているだけです。
肉体の自我意識が囚われている、自分という「我」を解放して、宇宙へと帰って行くプログラムがあるだけなのです。
自分が映す現実世界(宇宙)とは、自分の意識を投影した内面の世界であり、全ては心の内の景色、言わば、幻です。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界がある訳ではなく、自分が映す現実世界(宇宙)とは、自分の心の中の心象風景にしか過ぎず、言わば、インナーワールドなのです。
ですから、自分が映す現実世界(宇宙)に存在しているかに見える、全ての人、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在しているだけです。
肉体の自我意識が囚われている、自分という「我」を解放して、宇宙へと帰って行くプログラムとして存在してくれているだけなのです。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である魂が、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、自分を解放して宇宙へと帰って行くプログラム上に存在してくれているだけなのです。
自分とは何か――自ら分かれた者
自分とは何でしょうか?
「自分」とは、「自ら分かれる」と書きます。
「自分」とは、「自ら分かれた者」なのです。
では、何から分かれたのでしょうか?
それは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識から分かれたのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけです。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
この大宇宙は、絶対世界と相対世界から成り立っています。
絶対世界とは、大宇宙の実相(本質)の世界です。
絶対世界とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこに唯一実在しているのは、大宇宙意識という「純粋意識」だけなのです。
絶対世界には、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」だけが実在しています。
そして、相対世界とは、大宇宙の仮相(仮の姿)の世界であり、物理的大宇宙は相対世界に属しています。
相対世界である物理的大宇宙とは、絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為に「創造(そうぞう)」されている「映し世(うつしよ)」であり、大宇宙意識の全知全能の光によって織り成されている、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界なのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
真我である魂とは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものが無い、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、ある一つの角度・「視点(してん)」から物理的大宇宙を映し出して体験している、一つの「支店(してん)」なのです。
自分という存在は、この大宙に二つとして同じものが無い、一つの「支店=視点(してん)」なのです。
物理的大宇宙(相対世界)という、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界を、ある一つの角度から映し出して体験している、一つの「支店=視点(してん)」なのです。
この物理的大宇宙(相対世界)そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界なので、自分が見ている大宇宙(現実世界)というのも、ある一つの「支店=視点(してん)」から見たバーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界なのです。
自分とは何か?
「自分」とは、「自ら分かれた者」です。
では、何から分かれたのでしょうか?
自分とは、大宇宙の根本主体・根本創造主である、大宇宙意識という「純粋意識」から「自ら分かれた」分霊(わけみたま)なのです。
絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為に「創造(そうぞう)」されている「映し世(うつしよ)」である、物理的大宇宙(相対世界)というバーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界を、ある一つの「支店=視点(してん)」から映し出して体験する為に、「自ら分かれた」分霊(わけみたま)なのです。
我無きを知りて、我有り
「我無きを知りて、我有り」ということについて、書いてみたいと思います。
自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、言わばインナーワールドなので、自分一人の世界であり、自分しかいない世界だと言えます。
ところが、自分という存在も、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎません。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つであり、ある一つの角度・視点(してん)を受け持って、大宇宙を映し出して見ている支店(してん)の中の一つにしか過ぎないのです。
言わば、大宇宙に二つとして同じものが無い、テレビカメラ(モニター)の中の一つだと言えます。
自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、この大宇宙に二つとして同じものが無い、あるテレビカメラ(モニター)から見た視点(してん)なのです。
この大宇宙に唯一実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけであり、物理的大宇宙の全ては大宇宙意識の顕れなので、自分という存在も、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、ある一つの角度・視点(してん)から大宇宙を映し出して見ている「支店=視点(してん)」の中の一つにしか過ぎないのです。
自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、自分の意識が映し出された内面の世界なので、自分一人の世界だと言えます。
自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、自分一人の世界であり、自分しかいない世界なのですが、自分という者すら本当はいる訳でもないので、自分すらいない世界であり、誰もいない世界だということになります。
自分が見ている現実世界(大宇宙)には、本当は誰もいません。
ただ、大宇宙意識とも言うべき大宇宙があるだけなのです。
自分が見ている現実世界(大宇宙)には、本当は誰もいる訳ではなく、自分すらいない世界だということを知った上で、自分一人の世界、自分の内面の世界を楽しんでいくことが、生きるということでもあります。
「我無きを知りて、我有り」ということなのです。
全てこの世は「神芝居」
全てこの世は「神芝居」です。
この世は、全てが「神芝居」なのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識だけなのです。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で営まれていますので、もし、大宇宙意識のことを神と表現するならば、大宇宙の森羅万象の全ては、神によって演じられている「神芝居」だと言えます。
そして、同じことが自分自身の人生についても言えます。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂なのです。
自分の人生の全ては、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
もし、大宇宙意識のことを、神と表現するならば、真我である魂は、神の分霊(わけみたま)なので、自分の人生の全ては、神の分霊(わけみたま)である魂が演じている「神芝居」ということになります。
自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものが無い、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、ある一つの角度・視点(してん)からこの大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
大宇宙意識によって演じられている、大宇宙の森羅万象という「神芝居」を、ある一つの角度・視点(してん)から体験している一つの支店(してん)なのです。
自分の人生の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)である魂が「想像=創造(そうぞう)」し、演じている「神芝居」なのです。
ただ、真我である魂と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)には差(ギャップ)がありますので、自分の人生の全ての現実を自分自身が「想像=創造(そうぞう)」したのだということが、中々分からないだけなのです。
特に、予期せぬ出来事や、不幸・不運と感じられる出来事も、全ては自分自身が「想像=創造(そうぞう)」したのだということが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、中々理解出来ません。
しかし、それらの現実も、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した最善の出来事なのです。
そのことを、受け入れ、認めていくことが、心の成長であり、意識の拡張であり、意識の福化と呼べるものなのです。
人生の悩み・苦しみの根底にあるのは、自分の現実を自分自身が「想像=創造(そうぞう)」したのだということを、理解出来ないところから来ています。
自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」した「神芝居」を、体験して味わう為に、自分という存在は今、この時空に存在しています。
本当の自分自身によって演じられている「神芝居」を、どれだけ楽しんでいますか、ということが常に問われているのであり、本当の自分自身が演じている「神芝居」をどんどん楽しめるようになっていくことが、心の成長であり、意識の拡張であり、意識の福化と呼べるものなのです。
全てこの世は「神芝居」です。
この世は、全てが「神芝居」なのです。
多次元に生きる、本源の我
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★多次元に生きる、本源の我
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂は、多次元に生きる、偉大な存在です。
大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂とは、アバターである肉体の中に存在しているものではなく、時空を遥かに超越した存在であり、多次元に生きる、偉大な存在なのです。
時間というものは、究極的には存在しておらず、時間は流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在していますので、様々な過去世や未来世と呼ばれるものも、今、同時に存在しています。
本源の我であり、真我である我が魂は、時空を超越して、多次元に亘るそれらの人生の全てを司っている存在であり、多くの人たちが考えているものよりも、遥かに偉大なものなのです。
大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である我が魂と、今生きている自分との関係を、コンピューターに例えるとするならば、真我である魂がホストコンピューターであり、今生きている自分は、そこからたくさん出ている端末機の中の一つであると言えます。
本源の我であり、真我である、魂というホストコンピューターからたくさん出ている端末機の中の一つが、今生きている自分というアバターなのです。
今ここに存在している自分というアバターは、ホストコンピューターである魂からたくさん出ている端末機の中の一つにしか過ぎません。
自分が見ている現実世界(物理的大宇宙)とは、たくさんある端末機の中の一つのモニターにしか過ぎず、多次元に亘る様々なモニターの全てを見ているのが、本源の我であり、真我である、我が魂なのです。
今生きている自分の肉体の死というものは、本源の我である魂から見れば、ホストコンピューターからたくさん出ている端末機の中の一つの電源をオフにして、そこで演じられていたプログラム(人生ドラマ)の幕を閉じるようなものかも知れません。
アバターである肉体が死を迎えても、本源の我である魂は、時空を超越して、永遠に存在し続けるのです。
大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂とは、アバターである肉体の中に存在している訳ではなく、時空を遥かに超越したものであり、多次元に生きる、偉大なものなのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
魂を自分の肉体の外に想像
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★魂を自分の肉体の外に想像
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
魂と聞くと、自分の肉体の中にあるとイメージする人が多いかも知れません。
しかし、それはあくまでも、これまでの宗教的世界観から来たものだと言えます。
これまでは、魂と言うと、私の魂、あなたの魂、あの人の魂・・・という具合に、魂を肉体の中に想像して来ましたが、それはあくまでも、これまでの宗教的世界観にしか過ぎないとも言えます。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界です。
自分が映す現実世界(物理的大宇宙)の全ては、自分の「意識」が映し出された、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドなのです。
自分が映す現実世界(物理的大宇宙)は、全てが仮想の世界であり、バーチャルな世界であることが分かると、魂が肉体の中にあるという想定は、これまでの宗教的世界観から来たものだということが分かります。
これまでは、魂と言うと、私の魂、あなたの魂、あの人の魂・・・という具合に、魂を肉体の中に想像して来ましたが、それはあくまでも、これまでの宗教的世界観にしか過ぎないとも言えます。
魂は何処にあるかと言うと、自分が映す現実世界(物理的大宇宙)の全ては、自分の「意識」の中にあるものなので、魂を自分の肉体の外に想像した方が、本来の魂の姿に近いのだと言えます。
自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがあり、その中の地球という小さな星にある、日本という国の中に、肉体を持った自分が存在していて、自分の肉体の中に、真我である魂という「意識」が存在している訳ではありません。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、アバターにしか過ぎず、アバターである肉体の中に、大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である魂という「意識」が存在している訳ではないのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
書籍「魂の夢、光り輝く魂」――豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、21世紀の新しい世界観「開眼世界観」に基づき、生きるということの本質について、考察した書です。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」には、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」というサブタイトルが付いています。
自分が映す現実世界(大宇宙)とは、自分の意識が投影された自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色であり、言わば、インナーワールドなのです。
ですから、自分の心の位置の豊かさでしか、豊かなる世界を感じることは出来ないのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがある訳ではなく、自分が映す現実世界の全ては、自分の心の内の景色なのです。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、何方にとってもお勧めなのですが、特に、幸・不幸、運・不運という概念に囚われている方、自分が映す現実世界の全てが、自分の意識を投影した自分の内面の世界であり、自分の外に何か確固とした客観的な現実世界がある訳ではないということが理解出来ていない方にお勧めです!
この世界そのものが、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさを実感出来るようになる
前回、「この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界」の中に書きましたが、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界なのです。
そして、この世界そのものが、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさを実感出来るようになります。
そして、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である物理的大宇宙に、今、自分が生かされて存在しているという、生命の不可思議さというものを、本当の意味で、感じられるようになるのです。
もちろん、多くの人たちが考えているように、物質というものが何か確固たる実体のあるものであり、自分の外に何か確固とした現実世界(物理的大宇宙)があると認識している場合でも、それなりに、大宇宙の輝き、美しさ、面白さ、かけがえのなさ、生命の不可思議さを感じることは出来るのですが、ある意味においては、表面的にしか感じることは出来ず、本当の意味において、深く実感することは出来ないとも言えるかも知れません。
この物理的大宇宙そのものが、全て幻の世界であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であるからこそ、この世界は本当にありがたく、面白く、美しく、生きて味わう価値があるのです。
自分が映す現実世界(大宇宙)に、例え如何なる紋様が映し出されていようとも、それらの全てが、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の全知全能の光が織り成すバーチャルリアリティー(仮想現実)の幻であり、大宇宙意識の全知全能の光が「無限」の表現となって顕われているだけなのです。
テレビの画面に、例えどのようなドラマや映画、あるいはニュースが映し出されていたとしても、テレビ画面に映し出されている映像そのものは、ブラウン管によって、電気という人工の光が二次元(平面)に映し出されている幻にしか過ぎません。
テレビ画面に映し出されている映像そのものは、電気という人工の光であり、幻であり、テレビ画面の映像そのものには実体は無いということは、お分かりいただけるかと思います。
テレビ画面の映像が、二次元(平面)に映し出された人工の光(電気)であるのに対して、この物理的大宇宙というのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の全知全能の光が、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出された3Dホログラムの映像のようなものだとイメージすると良いかも知れません。
何か確固たる実体があるもののように感じられる物理的大宇宙は、大宇宙意識の全知全能の光が、空間という360度立体のバーチャルなスクリーン上で、3Dホログラムの映像のように「無限」の表現となって光により織り成されているだけの幻の世界なのです。
全ては幻であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の全知全能の光によって創られた世界であり、この大宇宙の全てが光の中なのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなのです。
大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
物理的大宇宙とは、大宇宙意識という「純粋意識」が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為の「映(うつ)し世」として「創造(そうぞう)」されているバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
自分という存在は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものが無い、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり幻の世である、この物理的大宇宙を映し出して体験している「支店=視点(してん)」の中の一つなのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
真我である魂が、このバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為のアバター(分身・化身)が、肉体を持った自分なのです。
インターネットの仮想空間を体験する為に、アバターと呼ばれる自分の分身を使って体験するかと思いますが、ちょうどそれと同じように、肉体を持った自分というのは、真我である魂が、物理的大宇宙というバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験する為のアバター(分身・化身)にしか過ぎないのです。
この物理的大宇宙の全てが、大宇宙意識の全知全能の光が織り成すバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、全てが幻の世界なのです。
この物理的大宇宙の全てが、大宇宙意識の全知全能の光の中にあり、全てが光の世界なのです。
そして、この世界がバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世であり、全てが光の世界であることが分かった時初めて、この世界の本当の輝きというものを感じられるようになります。
この世界そのものが、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが分かった時初めて、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさを実感出来るようになるのです。
そして、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である物理的大宇宙に、今、自分が生かされて存在しているという、生命の不可思議さというものも、本当の意味で、感じられるようになるのです。
この世界が全て幻であることが分かれば分かる程、自分が映す現実世界(大宇宙)はますます鮮やかに感じられ、ありがたく、そして、面白く感じられてくるようになります。
この世界が幻だから美しくない、ありがたくない、面白くない、生きる価値がないということではなく、この世界が幻の世だからこそ、この世界は本当に、美しく、ありがたく、面白く、生きて味わう価値があるのです。
この世界が全て幻であるが故に、生きる喜び、生きる楽しみ、生命のかけがえのなさ、生命の美しさ、生命の輝きが、より一層感じられてくるのです。
この世界が全て幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが分かった時初めて、真の意味において、生命の輝きを見ることが出来るようになります。
以前書いた「幻の世と知って生きることに生命の輝きを見る」もご参照いただければ幸いです。
この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
1月25日に放送された、NHKのスペシャル番組「ネクストワールド」(5回シリーズ)の第4回「人生はどこまで楽しくなるのか」をご覧になった方も多いかも知れません。
その中で、バーチャルリアリティー(仮想現実)というものが、これからの社会の主流になって行くということが取り上げられており、今年2015年頃から、その動きが本格化していくというようなことが述べられていました。
インターネットやゲームの世界においては、3Dのバーチャルリアリティー(仮想現実)というものが、既に重要な役割を果たすようになってきているようです。
番組の中では、ハーバード大学の研究チームが開発中の、匂いを伝達出来る電話機なども登場し、それを体験した人の、驚きの表情などが伝えられていました。
科学技術・テクノロジーの目覚しい進歩により、何れ、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感全てを、バーチャルリアリティー(仮想現実)で体験出来るようになりますので、そうなった時には、現実と仮想現実(バーチャルリアリティー)の区別は、ほとんど付かなくなるとも言われています。
実は、私たちが生きている、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
大宇宙は、大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界と、大宇宙の仮相(仮の姿)の世界である相対世界から成り立っています。
私たちが生きている、この物理的大宇宙とは、相対世界に属していますので、あくまでも、大宇宙の仮相(仮の姿)の世界にしか過ぎず、大宇宙の実相(本質)の世界ではありません。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこにはただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
絶対世界に唯一実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という一つの「純粋意識」だけなのです。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
相対世界である物理的大宇宙とは、絶対世界において大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージを、映し出して体験する為の「鏡」の世界であり、言わば、「映(うつ)し世」として「創造(そうぞう)」されているバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
物理的大宇宙(相対世界)とは、絶対世界に唯一実在する大宇宙意識の全知全能の光によって創られたバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界なのです。
物質というものを「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」というものなのです。
物理的大宇宙を「想像=創造(そうぞう)」している源は、大宇宙意識という「純粋意識」なのです。
最先端の物理学では、このことがようやく理解出来るようにもなって来ているようです。
『大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある』ということが、ようやく理解出来るようにもなって来ているようです。
物理的大宇宙とは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」の中に存在している世界なのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
真我である魂とは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、大宇宙に二つとして同じものが無い、ある一つの支店(してん)を受け持って、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出して見ている「支店=視点(してん)」の中の一つなのです。
自分が見ている大宇宙(現実世界)とは、自分の「意識」の中に存在している世界なのです。
多くの人たちは、自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界(大宇宙)というものがあると考えています。
そうではなく、自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、自分自身の「意識」が投影された内面の世界であり、心の内の景色であり、言わば、インナーワールドなのです。
自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、自分の脳が情報処理・画像処理した結果を、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなので、テレビや映画を見ているのと同じような状態であると言えます。
自分の脳の中の心象風景とでも言うべきものを、空間という360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなので、自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、言わば、自分の脳が創り出したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
物質を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」というものなのです。
「意識」によって「想像=創造(そうぞう)」されたバーチャルリアリティー(仮想現実)が、物質という幻なのです。
この物理的大宇宙そのものが、大宇宙意識によって「想像=創造(そうぞう)」されたバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、大宇宙意識の全知全能の光が、様々な紋様となって織り成されているだけなのです。
私たち一人ひとりは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、この大宇宙に二つとして同じものが無い、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、このバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験して味わっている存在なのです。
自分が見ている現実世界(大宇宙)とは、自分自身の「意識」の中に存在している世界であり、言わば、自分の脳が創り出したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
私たち人類の意識の進化と、科学技術・テクノロジーの進化とは、深く密接に関わっています。
この21世紀において、私たち人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生することになります。
有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えます。
天動説が地動説に変わるような、コペルニクス的大転回を、私たち人類は、これから経験することになるのです。
『大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある』ということを理解出来るようになります。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界(大宇宙)というものがある訳ではなく、現実世界(大宇宙)とは、自分の「意識」が投影された自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドであることを理解出来るようになります。
この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、自分が見ている現実世界(大宇宙)もまた、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることが、理解出来るようになるのです。
科学技術・テクノロジーが飛躍的に進化して、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚の五感全てをバーチャルリアリティー(仮想現実)で体験出来るようになり、現実と仮想現実(バーチャルリアリティー)の区別が付かない程になると、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であることは、ごく自然に受け入れられていくかも知れません。
私たち人類の意識の進化と、科学技術・テクノロジーの進化とは、深く密接に関わっていますので、人類の意識の進化を促すような科学技術・テクノロジーが、必ず現れてくることになります。
実は、この物理的大宇宙そのものが、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界であることは、何千年も前から、一部の人たちには分かっていたのだと思います。
サンスクリット語に、「マーヤ(幻・幻影)」という言葉があり、この世界自体を「マーヤ(幻・幻影)」という言葉で表現していたようです。
また、サンスクリット語には、「リーラ(全ては神の戯れ)」という言葉もあるようです。
実は、この世界自体が「マーヤ(幻・幻影)」であるということも、「全ては神の戯れ」(リーラ)であるということも、本質において同じことなのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、大宇宙意識の全知全能の光が織り成す幻の世界であり、「全ては大宇宙意識の戯れ(リーラ)」と呼べるものなのです。
これらのことは、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の中に、はっきりと詳しく書いておきましたので、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をお読みいただくことを、強くお勧め致します。
私たち一人ひとりが魔法使い――自らが自らに掛けた本質の魔法、豊かな魔法を想い出すことが大切
私たち一人ひとりが魔法使いです。
人は皆、本質において魔法使いなのです。
ただし、ここで言う魔法使いとは、一般的に使われているような、自分のなりたい自分に自由自在に成ることが出来、自分の望みを何でも叶えることが出来るというような意味での魔法使いではありません。
そのような意味での魔法使いというのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)が考えている魔法使いなのです。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、映画に出て来るようなスーパーマンではありませんし、魔法の杖を持っていて、自分の望みを何でも実現できるという訳でもありません。
しかし、自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である我が魂こそが、魔法使いなのです。
本源の我であり、真我である我が魂は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識と、大宇宙意識の分霊(わけみたま)である我が魂とは、本質において同じものであり、真我である魂には、大宇宙意識が持つ「無限」の属性とでも言うべきものが宿されているのです。
自分の人生の全ては、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
真我である我が魂は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂であり、真我である我が魂こそが、真の意味において魔法使いなのです。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、真我である魂の分身・化身として存在しているアバター(Avatar)にしか過ぎません。
真我である魂のアバター(分身・化身)として存在している自分というのは、自分の容姿・性格・健康状態・才能なども含めた全てが、真我である魂が、魂を進化させる為に一番ピッタリな、好む形で姿を現しているだけなのです。
肉体を持った自分というのは、真我である魂が、魂を進化させる為に最高のアバター(分身・化身)なのです。
真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とは、違います。
魂の関心事とは、魂の進化ということであり、光り輝く魂になるということなのです。
心を純化させ、意識を福化させることが望みなのです。
心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。
一方、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とは、一般的に、多くの人たちにとっては、健康・長寿、お金・富、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の家庭、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、豊かな人間関係、というようなことになるのかも知れません。
このように、真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とが違い、差(ギャップ)がある為に、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見れば、ともすれば、人生がつらく苦しく感じられてしまうのですが、真我である魂から見れば、魂を進化させる為に「想像=創造(そうぞう)」した最善の出来事なのです。
私たちの人生とは、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分の人生に起きる全ての現実は、魂の進化にとって最善の出来事の連続でしかありません。
ただ、そのことが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、分からないだけなのです。
肉体の自我意識が囚われている、自分という「我」を外し、心を無地透明にしてピュアな心になっていくと、真我である魂の想いというものが感じられ、自分が体験する全ての現実は、決して悪くはないのだと感じられるようになってきます。
自分の人生の全ては、上手くいっています。
心の広がりとして、上手くいっています。
意識の福化として、上手くいっているのです。
自分が体験する全ての現実は、その為に、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
不幸・不運としか思えないような現実が自分の身に起きた時は、その謎を解いてご覧、ということが、真我である魂から問われているとも言えます。
自分に掛けられた魔法というのは、自らが自らに掛けた本質の魔法のみなので、豊かな魔法のみなのです。
本当の自分自身である魂が掛けた魔法のみなので、豊かな魔法のみなのです。
心の広がりとして上手くいく、意識の福化として上手くいく魔法、豊かな魔法しか、自分には掛けられていないことを知ることが大切になります。
一切の苦しみが無い、一切が喜びに満ちた世界へと導いて行く方向でしか、自分に魔法は掛けられていないのです。
私たち一人ひとりが、真の意味において、魔法使いであることを、想い出すことが大切になります。
自らが自らに掛けた本質の魔法、豊かな魔法を想い出すことが大切になります。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
真我である我が魂こそが、真の意味において、魔法使いなのであり、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。
自らが自らに掛けた本質の魔法、豊かな魔法を想い出していく為に、書籍「魂の夢、光り輝く魂」をお読みいただくことを、強くお勧め致します。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、21世紀の新しい世界観「開眼世界観」に基づき、生きるとは何かについて考察した書であり、自らが自らに掛けた本質の魔法、豊かな魔法を想い出していく為の最良の書とも言える内容になっています。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」には、「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」というサブタイトルが付いています。
豊かなる世界とは、形の中にあるのではなく、自分自身の心の中にあるものなので、自分自身の心が豊かになればなる程、自分の心を映した「鏡」の世界である現実世界もまた、豊かなる世界として輝きを増してくるのです。
豊かなる心の位置でしか、豊かなる世界は現れてきませんので、豊かなる世界とは、自分自身の心の位置取りでしか感じることは出来ないのです。
言わば、自分自身の心の位置取りの豊かさに応じて、豊かなる世界を感じられるということなのです。
自分が体験する全ての現実は、その為に、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
本源の我であり、真我である我が魂は、豊かなる心の位置で現れてくる、豊かなる世界を体験して味わいたいのです。
私たち一人ひとりが、魔法使いであることを想い出すことが大切になります。
本源の我であり、真我である我が魂こそが、真の意味において魔法使いなので、自らが自らに掛けた本質の魔法、豊かな魔法を想い出すことが大切になります。
自分に掛けられた魔法というのは、自分自らが掛けた魔法のみなので、豊かな魔法のみなのです。
「豊かなる心の位置で豊かなる世界が現れてくる」という魔法、豊かな魔法のみであることを、想い出すことが大切になります。
私たち一人ひとりがアバター(Avatar)であり、神の化身であることを自覚することが大切
前回、「肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在しており、真我である魂が、分身であるアバターをコントロールしている」の中にも書きましたが、肉体を持った自分というのは、本当の自分ではなく、真我である魂の分身・化身として存在しているアバターなのです。
アバター(Avatar)という言葉は、元々は、サンスクリット語で「地上に降りた神の化身」を意味する言葉だったようですが、その後、インターネット上で、自分の分身となるキャラクターを意味する言葉として使われるようになったようです。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、本当の自分ではなく、本源の我であり、真我である魂が、現実世界と呼ばれる、魂の進化の場として与えられた運動場で、魂を進化させる為に「想像=創造(そうぞう)」した、アバター(分身・化身)なのです。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である我が魂です。
本源の我であり、真我である我が魂は、魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」したのです。
真我である魂というのは「意識」なので、現実世界と呼ばれる、魂の進化の場として与えられた運動場で魂を進化させる為には、肉体を持ったアバター(分身・化身)が必要なのです。
アバター(分身・化身)である自分というのは、顔・形・姿や、健康状態、性格なども含めて、真我である魂から見れば、最高のアバター(分身・化身)なのです。
真我である魂が、魂を進化させる為に最高のアバター(分身・化身)なのです。
真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とは、違います。
真我である魂の関心事とは、魂の進化ということであり、光り輝く魂になることが望みなのです。
心を純化させ、意識を福化させることが望みなのです。
心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことが望みなのです。
自分の容姿・性格・健康状態などの全ては、真我である魂から見れば、一番ピッタリなものであり、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、最高のアバター(分身・化身)なのです。
容姿端麗、元気ハツラツ、学業優秀、スポーツ万能、異性にモテモテ、仕事バリバリ、社会的に大成功、みんなに好かれる素晴らしい性格、たくさんの友人・知人に囲まれている自分・・・・・というような、多くの人たちが憧れている自分というのは、あくまでも、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見た、最高の自分なのです。
真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)の関心事とは違いますので、差(ギャップ)があることを知っておく必要があります。
肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)から見た最高の自分というのは、必ずしも、真我である魂から見た最高のアバター(分身・化身)ではありません。
真我である魂が、魂を進化させるために一番ピッタリな、最高のアバター(分身・化身)が、肉体の衣を纏(まと)った自分なのです。
私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、肉体の衣を纏(まと)った自分というのは、真我である魂が、魂を進化させる為に最高のアバター(分身・化身)なのです。
このことが理解出来て初めて、私たち一人ひとりが、サンスクリット語のアバター(Avatar)という言葉が元々意味する「地上に降りた神の化身」であることを、理解出来るようになります。
自分の容姿や性格、健康状態、社会的地位・立場、自分が周囲からどのように評価されている人間かなど、他の人々との比較・優劣、他人からの評価などによって、自分自身の価値を決めようとすると、ともすれば、自分という存在が、とても小さな、取るに足りない、価値の無い人間のようにも思えてくるかも知れません。
自分という存在が、サンスクリット語のアバター(Avatar)という言葉が元々意味する「地上に降りた神の化身」であるなどとは、とても思えないかも知れません。
しかし、アバター(Avatar)とは、インドの聖者で「地上に降りた神の化身」と呼ばれるような、ごく一部の聖者・賢者だけのことではありません。
霊性の大国・インドには、古来、「地上に降りた神の化身」を意味するアバター(Avatar)と呼ばれる聖者が輩出しました。
しかし、そのような、ごく一部の聖者だけがアバター(Avatar)なのではなく、私たち一人ひとりがアバター(Avatar)であり、「地上に降りた神の化身」であることを自覚することが大切になります。
肉体を持った自分が本当の自分自身だと勘違いして、自分の容姿や性格、健康状態、自分の社会的地位・立場、自分が周囲の人々からどういう評価を受けている人間かなど、自分の肉体ばかりを見て自分を判断しているから、自分自身の本当の価値が分からなくなっているだけなのです。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、真我である魂が、魂を進化させる為に、一番ピッタリな、好む形で姿を現しているだけなのです。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である我が魂です。
本源の我であり、真我である我が魂は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
もし、仮に、神という表現を使うならば、真我である魂は、神の分霊(わけみたま)なのです。
神の分霊(わけみたま)である魂の分身・化身として、地上に降り立っているのが、肉体の衣を纏(まと)ったアバターである自分なのです。
神の本質と同じ、聖なる光の存在が、自分自身の本当の光を一旦忘れ、それを想い出し、蘇らせ、さらに光り輝く為に、肉体の衣を纏(まと)って、今地上に降り立っているのであり、それが、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在している、自分なのです。
肉体の衣を纏(まと)った自分というのは、あくまでも、真我である魂の分身・化身として存在しているアバターにしか過ぎないことが理解出来て初めて、自分が映す現実世界というものを、真実の光の中で見ることが出来るようになります。
真我である魂のアバター(分身・化身)として、肉体の衣を纏(まと)った自分が今存在しているということについては、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の中に詳しく書いてありますので、まだお読みでない方は、是非、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をご購読いただくことを、お勧め致します。
肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在しており、真我である魂が、分身であるアバターをコントロールしている
以前、「今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない」の中でも書きましたが、肉体を持った自分というのは、本当の自分自身ではなく、真我である魂の分身・化身として存在している、アバターにしか過ぎないのです。
肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在していますので、真我である魂が、分身であるアバターをコントロールしています。
リモコンの飛行機に例えるならば、リモコンで操作しているのが、真我である魂であり、リモコンで操作されて飛んでいる飛行機が、アバター(分身・化身)である、肉体を持った自分なのです。
私たちは、自分の意志で、右を向いたり左を向いたり、歩いたり走ったり、体を動かしたり、頭で何かを考えたりしていると思っていますが、それらを全て操作してコントロールしているのが、本源の我であり、真我である魂なのです。
アバター(分身・化身)である、肉体を持った自分を操作してコントロールしている、もう一人の自分、本当の自分が存在しており、それが、真我である魂なのです。
肉体を持った自分というのは、真我である魂が、現実世界と呼ばれる、魂の進化の場として与えられた運動場で、魂を進化させる為に「想像=創造(そうぞう)」した、アバター(分身・化身)なのです。
アバターという言葉は、元々は、サンスクリット語で「地上に降りた神の化身」を意味する言葉だったようですが、その後、インターネット上で、自分の分身となるキャラクターを意味する言葉として使われるようになったようです。
ジェームズ・キャメロン監督の映画「アバター」(Avatar)が世界的に大ヒットし、歴代1位となる世界興行収入を記録したことなどにより、インターネットをしない人にも、アバターという言葉は、一般的に知られる言葉になってきたのではないかと思います。
アバター(分身・化身)という言葉自体は、割と一般的になってきましたが、肉体を持った自分というのは、真我である魂のアバター(分身・化身)として存在しているということについては、今はまだ、ほとんどの人は、理解出来ないかも知れません。
しかし、今、私たち人類の意識は飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する時を迎えていますので、いずれそう遠くない将来、多くの人たちが、このことを理解出来るようになっていく筈です。
そして、それは、科学技術・テクノロジーの進化と、深く密接に関わっています。
私たち人類の意識の進化と、科学技術・テクノロジーの進化とは、深く密接に関わっていますので、私たち人類の意識の進化を促すような科学技術・テクノロジーが、必ず現れてくることになります。
今年の正月三日に放送された、NHKのスペシャル番組「ネクストワールド」(5回シリーズ)の第1回「未来予測」をご覧になられた方も多いかも知れません。
その中で、今から30年後、西暦2045年には、音楽コンサートにわざわざ自分自身が参加するのではなく、アバターと呼ばれる分身を参加させて、コンサートを楽しむ時代が来る、というようなことが、予測されていました。
科学技術・テクノロジーの進化とともに、そのような時代も、いずれ到来することになると思いますが、そのような時代が到来した時には、肉体を持った自分というのは、あくまでも、真我である魂の分身・化身として存在しているアバターにしか過ぎないということは、ごく自然に受け入れられているかも知れません。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である我が魂です。
自分の人生の全ては、真我である魂が、「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
本源の我であり、真我である魂というのは、「意識」なので、現実世界を体験する為には、肉体を持ったアバター(分身・化身)が必要なのです。
自分の肉体の顔・姿・形や、健康状態、性格などの全ては、真我である魂から見れば、魂を進化させる為に一番ピッタリな、最善のものなのです。
肉体を持った自分というのは、真我である魂が、魂を進化させる為に「想像=創造(そうぞう)」した、最高のアバター(分身・化身)なのです。
真我である魂が、現実世界と呼ばれる、魂の進化の場として与えられた運動場で、魂を進化させる為に一番ピッタリな、最高のアバター(分身・化身)なのです。
肉体を持った自分というのは、本当の自分自身ではなく、あくまでも、真我である魂の分身・化身として存在しているアバターにしか過ぎないということが分かるようになると、現実世界に対する捉え方・認識も、大きく変わります。
真我である魂のアバター(分身・化身)として、肉体の衣を纏(まと)った自分が、今、ここに存在しているということについては、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の中に詳しく書いてありますので、まだお読みでない方は、是非、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をご購読いただくことを、お勧めいたします。
人事を尽くして天命を待つ
人事を尽くして天命を待つ、という言葉があります。
人事を尽くして天命を待つ、という言葉は、言い得て妙であり、なかなか良い言葉だと思います。
何故なら、私たちには、人事を尽くして天命を待つことしか出来ないからなのです。
私たちに出来るのは、人事を尽くすこと、即ち、自分のベスト、自分に出来る最善を尽くすことだけなのです。
そして、結果は始めから決まっており、大宇宙の計画通りなのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなのです。
大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で営まれていますので、全ては大宇宙意識の計画の中にあります。
全ては、大宇宙の計画の中なのです。
そして、大宇宙意識が実在している絶対世界(大宇宙の本質の世界)とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこには、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中で、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全てが、元々存在しており、大宇宙は元々完成しているのです。
この大宇宙とは、元々が完成された、完全な世界であり、大宇宙の全てが、元々確定しています。
全ては、大宇宙意識の調べの中、即ち、大宇宙の計画の中にあるのです。
私たちに出来るのは、人事を尽くすこと、即ち、自分のベストを尽くし、自分の最善の生き方をすることだけなのです。
人事を尽くし、ベストを尽くし、自分の最善を尽くした後の結果は、元々決まっており、大宇宙の計画の中にあるのです。
人事を尽くした後は、天命を待つこと、即ち、大宇宙の計画を待つことしか、私たちには出来ないのです。
そして、大宇宙の計画とは、本当の自分自身、真我である我が魂の計画でもあるのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
自分の人生の全ては、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
我が魂というのは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)なので、全ては我が魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中なのです。
私たちに出来るのは、人事を尽くして天命を待つことだけなのですが、天命である大宇宙の計画とは即ち、真我である我が魂の計画でもあるのです。
自分の人生の全ては、真我である魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、創造の主体者である我が魂から見れば、全ては想い通りなのです。
ただ、そのことが、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では、なかなか分からないだけなのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識・顕在意識)では想い通りでないように感じられたとしても、真我である我が魂から見れば、全ては想い通りなのです。
私たちは、自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した世界を、体験して味わう為に、肉体の衣を纏(まと)って、今、この時空に存在しています。
私たちは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」した計画を、体験しながら想い出していく旅をしているのです。
人事を尽くし、ベストを尽くし、自分の最善を尽くした後は、自分の人生の主体者・創造者である我が魂の計画、即ち、大宇宙の計画を待てば良いのです。
天(神仏・宇宙)に祈りが通じるとは、何を意味するのか
何かの宗教を信じ、何かの信仰を持っている人は元より、信仰を持たない人であっても、天(神仏・宇宙)に祈れば、願いは叶えられると信じている人たちは多いと思います。
天(神仏・宇宙)に祈りが通じるというのは、あるレベルにおいては、本当のことです。
しかしそれは、あくまでも、二義的な意味においての真実でしかありません。
先日、「大宇宙は元々完成しているので、叶う願いは元々叶っているし、叶わない願いは元々叶っていない」の中で書きましたが、大宇宙は元々完成していますので、祈りが通じるも通じないも無いのです。
しかし、あるレベルにおいては、天(神仏・宇宙)に祈りは通じるのです。
しかしそれは、あくまでも、二義的な意味においてなのです。
このことを理解する為には、まず、世界の主な宗教における神や仏という概念と、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは違うということを、理解しておく必要があります。
以前、「世界の主な宗教の源は一つ」の中で書きましたが、世界の主な宗教の源は一つであり、「地球神界」とでも呼ぶべき、地球の全生命を直接創造した存在たちの世界が、そのルーツとなっています。
聖書においては、「神」と訳されています。
しかし、旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれている通り、地球の全生命を直接創造したのは、私たち人間と同じように、姿・形を持った存在たちなのです。
無形の超自然の神が、地球の全生命を直接創造した訳ではなく、地球の全生命を直接創造したのは、あくまでも、私たち人間と同じように、姿・形や名前を持った存在たちなのです。
「地球神界」の存在たちは、大宇宙そのものを創造した訳ではないので、大宇宙そのものへの究極的な信仰を持っているのです。
『人類の意識がどんなに進化しても無くならない宗教とは――「無限」の宗教』の中で書きましたが、「地球神界」における存在たちも、「無限」の宗教という、究極の宗教、永遠の宗教、絶対の宗教を持っています。
大宇宙そのものを、「無限」という言葉で表現するならば、大宇宙そのものへの畏敬の念、言わば、「無限」への信仰心というものを持っているのです。
聖書における「神」というのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは違います。
聖書における「神」が信仰しているのが、大宇宙意識、即ち「無限」なのです。
大宇宙意識とは、姿・形や名前を持った存在などではなく、一つの「純粋意識」なのです。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙意識が実在している絶対世界(大宇宙の本質の世界)とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこにはただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の全てが元々存在しており、大宇宙は元々完成しているのです。
大宇宙は元々完成していますので、第一義的な意味、最も本質的な意味においては、大宇宙に祈りが通じるも通じないも無いのです。
しかし、二義的な意味、あるレベルにおいては、天(神仏・宇宙)に祈りは通じ、願いは叶えられるのです。
「地球神界」は、私たちの星・地球に対しては「全能」なので、私たちの願いを叶えることが出来るからなのです。
「地球神界」の存在たちというのは、あくまでも、私たち人間と同じように、姿・形を持った存在たちなので、古代においては、「神」と人間との間に、直接的なやり取りが行われていた時代がありました。
「神」が直接、人間に命令を下したり、「神」が人間の願いを直接聞き入れたりしていた時代があります。
それらの痕跡は、聖書や世界各地の神話などに、様々な形で残っていると思います。
有名な話では、「神」がノアに命じて「ノアの箱舟」を造らせ、大洪水から救った話などもその一つです。
あるいは、モーゼがシナイ山の山頂で、「神」から「十戒」が書かれた石板を授かった話などもそうです。
モーゼは、「神」に示された形に従って、「神」が人間の代表者と会う為の「会見の幕屋」を作ったとされています。
人々は、「神」への服従のしるしとして、「会見の幕屋」へ食物や貢物を持参したのです。
日本の神社の基本的な構造は、モーゼが作った「会見の幕屋」とそっくりだと言われています。
そして、モーゼが作った「会見の幕屋」は、古代イスラエルのエルサレム神殿の原型にもなっています。
「神」が人間たちと直接やり取りしていた時代には、「神」が私たち人間の願いを直接聞き入れて、願いを叶えたりしていました。
「地球神界」は、地球に対しては「全能」なので、直接的にではなくとも、間接的に、人々の祈りに応じて、人々の願いを叶えることが出来ます。
例えば、アメリカインディアンなどの、所謂(いわゆる)、先住民族と呼ばれる人々には、雨乞いの儀式のようなものがあり、日照りが続いて雨が必要になると、天に祈り、雨を降らせてもらったりしていたようです。
天候などの気象は勿論、「地球神界」がコントロールしていますので、先住民族の祈りに応じて、雨を降らせることが出来ます。
そういう意味においては、天(神仏・宇宙)に祈りが通じ、願いが叶うというのは、本当のことなのです。
しかし、「地球神界」が先住民族の雨乞いの儀式に応じて雨を降らせることが出来るのは、元々、絶対世界(大宇宙の本質の世界)で決まっていたからなのです。
先住民族が雨乞いの儀式を行ったから、「地球神界」がその祈りを聞き入れて雨を降らせたと言うより、ある時、先住民族の住む場所に雨が降ることは元々決まっており、雨乞いの儀式を行ってから雨が降るということが、元々決まっていたということなのです。
雨乞いの儀式を行ったから、天(神仏・宇宙)に祈りが通じたというのは、あくまでも、二義的な見方であり、本質的な見方ではありません。
何故なら、祈ったから祈りが通じて願いが叶う、というのは、時間の流れが、過去→現在→未来へと流れており、原因があって結果があるという前提の上に成り立った見方であり、一面的な見方でしかないからなのです。
雨乞いの儀式を行ったから、天に祈りが通じて雨がもたらされたと言うより、雨が降ることは元々決まっており、雨乞いの儀式を行ってから雨が降るということが、元々決まっていたというのが、最も本質的な、第一義的な見方なのです。
縁結びで有名な、何処かの神社に参拝して、恋愛成就を祈願したから、異性との出会いがあったり、恋愛が成就したり、結婚出来たというのは、あくまでも、二義的な見方です。
異性との出会いや、恋愛成就、結婚というのは元々決まっており、縁結びで有名な何処かの神社に参拝してから恋愛成就するということが、元々決まっていたというのが、最も本質的な第一義的な見方なのです。
人と人との出会い・ご縁などは、生まれる前から決まっていることであり、結婚する相手との出会い・ご縁などは、その最たるものです。
縁結びで有名な、何処かの神社に参拝したから、異性との出会い・ご縁が生まれるというようなものではなく、何時、何処で、誰と出会うかは、生まれる前から決まっており、どのようなプロセスを経て出会うかということまで、全て決まっているということなのです。
学問の神様とされる天神様(菅原道真公)が祀られている有名な神社に参拝して、合格祈願したから、志望校に合格出来た訳ではありません。
志望校に合格することは、元々決まっており、学問の神様が祀られている有名な神社で合格祈願してから、合格するということが、元々決まっていたということなのです。
天(神仏・宇宙)に祈れば、祈りが通じ、願いが叶えられるというのは、あるレベルにおいては、本当のことなのです。
しかしそれは、あくまでも、時間というものが、過去→現在→未来へと流れており、原因があって結果があるという前提の上に成り立った見方であり、一面の真理でしかありません。
大宇宙は元々完成しており、元々全てが決まっていますので、元々決まっていた通りに展開しただけなのです。
それが最も本質的な、第一義的な見方になります。
「地球神界」は、地球に対しては「全能」なので、人々の祈りに応じて、願いを叶えることが出来ます。
しかし、「地球神界」が大宇宙そのものを創造した訳ではないので、「地球神界」が私たち人間の祈りに応じて願いを叶えることまで含めて、元々、絶対世界(大宇宙の本質の世界)で決まっていたことなのです。
是非、この秋に相次いで出された2冊の新著、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と「何故、未来は100パーセント確定しているのか」を併せてお読みいただき、大宇宙についての、最も本質的な、根源的な考察をご参照いただくことを、強くお勧め致します。
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文藝春秋社の雑誌「オール読物」10月号、「オール読物」12月号、11月6日(西日本は11月8日)の毎日新聞全国版・朝刊1面に続き、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の新聞広告が、12月6日の東京新聞・朝刊に掲載されます!
書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」は、大宇宙についての、最も本質的な、根源的な考察により、大宇宙の真相に迫った会心作です。
11月11日発売の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」と併せて、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をご購読いただくことを、強くお勧め致します!
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新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が本日11月11日、発売日を迎えました!
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が本日11月11日、発売日を迎えました!
四六判 228ページ
価 格 本体1500円+税
発 売 星 雲 社
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、電子書籍でもご購読出来ます!
各電子書店での配信開始は、11月下旬頃になる予定です。
9月25日に発売された「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と併せて、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」をご購読いただくことを、強くお勧め致します!
純粋に「個」としての意識というものは、存在していない
純粋に「個」としての意識というものは、存在していません。
純粋に、自分個人の意識というものは、存在していないのです。
私たちが普段、あれこれと考えている意識は、表面意識(顕在意識)と呼ばれる、氷山の一角のような部分であり、水面下には、潜在意識、無意識と呼ばれるような部分があり、さらに奥深くには、「個」としての意識を超えた、人類全体の集合意識のような部分があります。
そして、私たちの意識をさらに奥深く遡って行くと、最終的には、大宇宙の根本主体であり、根本創造主である大宇宙意識まで辿り着くことになります。
私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識が内在していますので、私たち一人ひとりは、自分の意識の一番奥深くでは、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙意識が内在していますので、私たちの意識を司り、コントロールしているのは、私たち自身ではなく、大宇宙意識なのです。
ですから、自分が表面意識(顕在意識)で、何かをちょっと思ったり考えたりしていることですら、自分自身の力でそれを行っている訳ではなく、その背後には必ず、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))が働いており、見えざる糸(意図(いと))で操られているようなものなのです。
私たち一人ひとりに生命を与え、私たちを一呼吸一呼吸生かしている存在・力が、私たちの意識の一番奥深くで、私たちの意識を司り、コントロールしているのです。
私たちは、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在なので、私たちが、自分自身の力で何かを思ったり考えたりしていることなど、本当は、何一つ無いのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなのです。
私たち一人ひとりは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙における一つの役割として存在していますので、自分の思考・感情・行動などの全ては、自分の役割の中において、大宇宙意識が司りコントロールしているものなのです。
私たち人間だけではなく、動物も植物も鉱物も、地球や太陽・月・星も、さらには銀河や大銀河団に至るまで、物理的大宇宙に存在する全ての被創造物は、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、全てが大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))で動かされているだけなのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、ある一つの法則(力学)の元、大宇宙意識が持つ根源的エネルギーによって動かされています。
大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))により動いていますので、全ては大宇宙意識の計画の中にあるのです。
そして、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識が実在している絶対世界(大宇宙の本質の世界)とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこにはただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識が実在しているのです。
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」を知る上で、このことは、必要不可欠となります。
「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の新聞広告が、11月6日の毎日新聞全国版・朝刊1面に掲載されました!
文藝春秋社の雑誌「オール読物」10月号に続き、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の広告が、11月6日(西日本は11月8日)の毎日新聞全国版・朝刊1面に掲載されました!
11月11日発売の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」と併せて、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をご購読いただくことを、強くお勧め致します!
「引き寄せの法則」には、重要な視点が欠けている。
「引き寄せの法則」と呼ばれるものがあり、「引き寄せの法則」というものが、宇宙の絶対法則であるかのような勘違いをしている人たちが、たくさんいるようです。
「引き寄せの法則」を紹介した「ザ・シークレット」という本などは、世界中でベストセラーになっているようです。
しかしながら、「引き寄せの法則」には、重要な視点が欠けており、「引き寄せの法則」は、宇宙の絶対法則などでは、決してありません。
「引き寄せの法則」に欠けている重要な視点は、大きく分けると二つありますが、この二つは、別々のことではなく、本質的に同じことなのです。
「引き寄せの法則」に欠けている重要な視点――その1.
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけであるという視点が欠けています。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(現象界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))によって営まれており、全ては大宇宙意識の計画の中にあるという視点が欠けています。
「引き寄せの法則」に欠けている重要な視点――その2.
時間は幻想であり、究極的には、時間というものは存在していないという視点が欠けています。
つまり、未来は100パーセント確定しているという視点が欠けているのです。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界には、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
時間は流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在しています。
時間は流れている訳ではないのですが、敢えて、時間の流れというものを想定した場合でも、それは、多くの人たちが考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。
過去も未来も、今、同時に存在しているということは、未来は既に確定的に存在しているということであり、既に確定している未来から時間がやって来て、そこに至る為のプロセスが順番に創り出されているということなのです。
原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれているのであり、ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているのであり、順番が逆なのです。
自分の望むものを何でも引き寄せることが出来るとする「引き寄せの法則」は、時間の流れが、過去→現在→未来へと流れているという前提の上に成り立っており、原因があって結果があるという前提の上に成り立っています。
究極的には時間というものは存在しておらず、過去も未来も、今、同時に存在しているのであり、敢えて、時間の流れというものを想定した場合でも、それは、多くの人たちが考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになるという視点が欠けています。
つまり、未来は100パーセント確定しているという視点が欠けているのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけであるということと、時間は幻想であり、本当は時間は存在していないということとは、別々のことではなく、本質的に同じことなのです。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、そこにはただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」だけが実在しています。
絶対世界においては、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全て、大宇宙の過去・現在・未来の全てが、元々存在しています。
絶対世界においては、大宇宙は元々完成しており、元々が、完成された、完全な世界なのです。
大宇宙は元々完成されているからこそ、未来は100パーセント確定しているのです。
未来とは、今これから創られて行くものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているものなのです。
私たち一人ひとりは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙における一つの役割としてしか存在していませんので、自分の役割の外へは一歩も出ることは出来ないのです。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
自分の魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中にある「想い」は「実現」し、「思考は現実化」しますが、自分の魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中に無い「想い」は「実現する」ことはありませんし、「思考は現実化する」こともありません。
「想いは実現する」、「思考は現実化する」とはどういうことなのかについては、以前書きましたので、ご参照下さい。
自分の望むものを、何でも引き寄せることが出来るとする「引き寄せの法則」には、重要な視点が欠けており、大いなる勘違い・錯覚であり、幻想にしか過ぎません。
また、潜在意識は、自分の望むものを何でも叶えてくれるとする「マーフィーの法則」なども同様であり、勘違い・錯覚・幻想にしか過ぎません。
大宇宙とは、私たち一人ひとりの私利私欲、私たち個人の願い事を、何でも叶えてくれる存在などでは、全くありません。
分かりやすく理解する為に、テニスのウインブルドン大会の男子シングルスの決勝戦を考えてみましょう。
決勝に進んだA選手とB選手の内、どちらかが勝って優勝し、どちらかが敗れて準優勝することになります。
引き分けという制度が無い限り、必ず、どちらかが敗れて準優勝となるのです。
A選手、B選手のそれぞれが、「引き寄せの法則」を使って、優勝を真剣に願ったとしても、必ず、どちらかは敗れて準優勝となります。
あるいは、神や仏と呼ばれる存在に、A選手、B選手のそれぞれが、真剣に祈ったとしても、必ず、どちらかは敗れて準優勝となるのです。
A選手、B選手の両方の願い・祈りを同時に叶えてくれて、両方を同時に優勝させることが出来る存在など、実は、この大宇宙には存在していないのです。
神と呼ぼうが仏と呼ぼうが、あるいは、大宇宙の根本創造主と呼ぼうが、如何なる存在であったとしても、A選手とB選手の両方の願い・祈りを同時に叶えることは不可能であり、また、同時に叶う必要も無いことなのです。
優勝する必要のある人が優勝し、準優勝する必要のある人が準優勝するというだけのことであり、どちらが優勝し、どちらが準優勝になるのかは、A選手やB選手が生まれる前から決まっていたことなのです。
大宇宙とは、私たち個人一人ひとりの願い事を何でも叶えてくれる存在などでは、全くありません。
大宇宙は元々完成していますので、元々全てが確定しているものなのです。
大宇宙とは、私たち個人一人ひとりの願い事を何でも叶えてくれる存在などでは、全くないということを理解する為に、もう一つの例を考えてみましょう。
日本花子さんという、才色兼備の若くて美しい女性がおり、花子さんの周囲には、花子さんを妻にしたいと真剣に望んでいる10人の男性がいると仮定します。
10人の男性がそれぞれ、花子さんとの結婚を、「引き寄せの法則」を使って真剣に望んだとしても、少なくとも、9人の願いは叶うことはありません。
もしかしたら、10人全員の願いが叶わないかも知れません。
1人の異性としか同時に結婚することは出来ないという、現在の日本の婚姻制度においては、花子さんが10人の男性と同時に結婚することは不可能であり、少なくとも、9人の願いは叶うことは無いのです。
もし、10人の男性がそれぞれ、神や仏と呼ばれる存在、あるいは、大宇宙の根本創造主と呼ばれる存在に対して、花子さんとの結婚を真剣に祈ったとしても、10人の男性の願い・祈りを同時に叶えることは不可能です。
如何なる存在であろうとも、10人の男性の願い・祈りを同時に叶えられる存在というのは、この大宇宙には存在していませんし、また、10人の願いが同時に叶う必要も無いことなのです。
もし、日本花子さんが結婚するのであれば、夫婦になる必要のある相手と結婚するだけのことであり、何時、誰と結婚するのかは、生まれる前から決まっていることなのです。
私たち一人ひとりは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙における一つの役割としてしか存在していませんので、自分の役割の中にある「想い」は「実現する」ことになり、「思考は現実化」しますが、自分の役割の中に無い「想い」は「実現する」ことはありませんし、「思考は現実化する」ことも無いのです。
大宇宙とは、私たち一人ひとりの願い事を何でも叶えてくれる存在などでは、全くありません。
「引き寄せの法則」や「マーフィーの法則」には、重要な視点が欠けていますので、宇宙の絶対法則などでは全くありません。
是非、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」と、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」を併せてお読みいただき、「引き寄せの法則」が宇宙の絶対法則であるかのような勘違い・錯覚・幻想から開放されていくことを、強くお勧め致します!
「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の新聞広告が、11月6日の毎日新聞全国版・朝刊1面に掲載されます!
文藝春秋社の雑誌「オール読物」10月号に続き、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の新聞広告が、11月6日(木)の毎日新聞全国版・朝刊1面に掲載されます!
西日本は、11月8日(土)の掲載となります。
毎日新聞をご購読の方は、11月6日(西日本は11月8日)の朝刊1面の書籍広告を、ぜひご覧下さい!
11月11日発売の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」と併せて、書籍「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」をご購読いただくことを、強くお勧め致します!
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が完成致しました!
2014年11月11日発売の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が完成致しました!
四六判 228ページ
価 格 本体1500円+税
発 売 星 雲 社
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、全国の書店、および、アマゾン等のオンライン書店での発売日は、
11月11日となりますが、当ホームページにて先行販売を開始致します。
先行販売に御予約いただいた方には、本日、書籍を郵送させていただきますので、お手元に届くまで、今しばらくお待ち下さい。
書籍の内容につきましては、書籍「何故、未来は100パーセント確定しているのか」のページをご参照下さい!
ご注文につきましては、「ご注文・ご予約」ページからお願い致します!
時間も空間も存在しない絶対世界(大宇宙の本質の世界)で「想像(そうぞう)」されたことが、「時間と空間」から成る物理的大宇宙に「創造(そうぞう)」されている
私たちが生きている、この物理的大宇宙は、「時間と空間」という座標軸によって成り立っている世界ですが、大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界は、時空を超越した世界であり、そこには、時間も空間も存在していません。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界には、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
絶対世界には、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」だけが実在しています。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(相対世界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
時間も空間も存在しない絶対世界において、大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したことが、「時間と空間」から成る物理的大宇宙(相対世界)に「創造(そうぞう)」されているのです。
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」を知る上で、このことは、必要不可欠となります。
ただ、このことは、大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界というものを、体験的に知る他無く、知識や学問などによっては、知る由もありません。
しかし、体験的に知らなくても、私たち一人ひとりの意識を一番奥深くまで遡れば、最終的には、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識まで辿り着くことになります。
ですから、私たちは、自分の意識の一番奥深くでは、この大宇宙の全てを知っているとも言えますので、未来が100パーセント確定しているということを、知っているのです。
そのことを想い出していく手助けとして、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」を出版させていただきました。
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」では、時間も空間も存在しない絶対世界で「想像(そうぞう)」されたことが、「時間と空間」から成る物理的大宇宙(相対世界)に「創造(そうぞう)」されていることをイメージしやすいように、敢えて、インターネットの世界と、それを映し出すパソコン画面、ユーチューブの動画などを例えに使いながら、詳しい説明を試みてみました。
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、間もなく完成致します。
11月11日の全国の書店での発売日に先立ち、当ホームページにて先行販売を開始致します。
是非、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」をお読みいただき、白紙の未来があるかのような勘違い・錯覚・幻想から開放されていくことを、強くお勧め致します!
未来とは、今これから創られて行くものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているもの
多くの人たちが、白紙の未来があるかのように考えているのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えます。
時間は幻想であり、本当は、時間というものは存在していません。
時間は流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在しているのです。
究極的には、時間というものは存在しておらず、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界には、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界とは、時間も無ければ空間も無い、時空を超越した根源の世界であり、非物質な世界なので、そこに唯一実在しているのは、大宇宙の根本創造主の「純粋意識」だけなのです。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(相対世界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
絶対世界においては、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識という「純粋意識」だけが実在しており、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全て、大宇宙の過去・現在・未来の全てが存在しているのです。
未来とは、今これから創られて行くものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているものなのです。
時間は流れている訳ではないのですが、敢えて、時間の流れというものを想定した場合でも、それは、多くの人たちが考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。
既に100パーセント結果が確定している未来から時間がやって来て、その原因となるものが創り出されているのです。
原因があって結果があると言うよりも、原因は結果によって選ばれているのであり、ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているのであり、順番が逆なのです。
全ては大宇宙の計画の中にあり、未来は既に100パーセント確定して存在していますので、私たちは、既に100パーセント確定して存在している未来と、これから出会って行くだけなのです。
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の先行予約を開始致します!
2014年11月11日発売の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の先行予約を開始致します!
四六判 228ページ
価 格 本体1500円+税
発 売 星 雲 社
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、全国の書店、および、アマゾン等のオンライン書店での発売日は、
11月11日となりますが、書籍が完成し次第、当ホームページにて先行販売を開始致します。
10月下旬には、お手元に新著をお届け出来る予定です。
書籍の内容につきましては、書籍「何故、未来は100パーセント確定しているのか」のページをご参照下さい!
ご注文につきましては、「ご注文・ご予約」ページからお願い致します!
新著2冊出版に伴い、ホームページをリニューアル致しました!
新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と、
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の出版に伴い、ホームページをリニューアル致しました!
「書籍」のページに、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」のページと、「何故、未来は100パーセント確定しているのか」のページを追加致しました!
全ての書籍をご覧になる場合は、「書籍」のトップページをご覧下さい!
「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」のページは、こちらをご覧下さい!
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」のページは、こちらをご覧下さい!
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の内容を、ご紹介致します!
2014年10月に出版される、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の内容を、ご紹介致します!
四六判 228ページ
価 格 本体1500円+税
発 売 星 雲 社
書籍「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、電子書籍でもご購読頂けます!
電子書籍には、EPUB方式(Amazon Kindle、楽天KOBO、紀伊国屋書店Kinoppyなど)とXMDF方式(GALAPAGOS STORE、ドコモ dマーケット BOOKストアなど)の2種類がありますが、両方に対応しておりますので、主な電子書店でご購読出来ます!
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」
白紙の未来がある訳ではなく
未来は100パーセント確定しています
はじめに
自分の未来は、決まっているのでしょうか?
そして、人類の未来、地球という星の未来は決まっているのでしょうか?
さらには、大宇宙の未来は決まっているのでしょうか?
未来というものは、既に確定しているものなのか、それとも、未来は完全に白紙なのでしょうか?
心の奥深くで、常に知りたかったことだと思います。
結論から先に申しますと、未来は既に決まっており、未来は100パーセント確定しています。
未来は100パーセント確定していますので、白紙の未来がある訳ではありません。
未来が100パーセント確定していることは、知識や学問などによっては知る由もなく、体験的に知る他無いので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。
この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、未来が100パーセント確定しているということを、決して理解出来ないと思います。
この大宇宙の本質というものを、体験的に知ることが出来ると、時間は幻想であること、そして、この大宇宙には、根本創造主(大宇宙意識)という唯一の存在しか実在していないことを知ることになり、未来が100パーセント確定しているということを、確信することが出来るようになります。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
「時」には、始まりも無ければ終わりもありません。
絶対世界に唯一実在しているのは、大宇宙の根本創造主の「純粋意識」のみです。
本書においては、大宇宙意識と呼んでいます。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(現象界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、不生不滅の実在であり、誕生するということも無ければ、消滅するということも無く、「永遠(えいえん)の今」に実在しています。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識のみが実在しており、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全てが存在しているのです。
絶対世界においては、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全て、大宇宙の過去・現在・未来の全てが、元々存在しています。
未来とは、今これから創られていくものではなく、元々100パーセント確定して存在しているものなのです。
例え、表面意識(顕在意識)では分からなくても、私たちは、意識の一番奥深くでは、未来が元々100パーセント確定しているということを、知っています。
何故なら、私たち一人ひとりは、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)の分霊(わけみたま)であり、私たちの意識を一番奥深くまで遡ると、最終的には、大宇宙意識まで辿り着くことになるからです。
私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識が内在しています。
ですから、私たち一人ひとりは、意識の一番奥深い部分においては、死に至るまでの自分の人生の全てを知っているだけではなく、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
そのことを想い出していく手助けとして、本書をご活用いただければ、これに勝る喜びはございません。
大和富士
目 次
はじめに
大宇宙の真相
大宇宙における実相(本質)の世界と、仮相(仮の姿)の世界
絶対世界――大宇宙の実相(本質)の世界とは
相対世界――大宇宙の仮相(仮の姿)の世界とは
想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
根本創造主が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事
大宇宙=無限
大宇宙の本質の世界(絶対世界)には、時間も空間も存在しない
全ては、根本創造主(大宇宙意識)の顕れ
大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーは一つ
大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))
全ては大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然なし
この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけ
大宇宙意識を映し出す「鏡」――物理的大宇宙は「映(うつ)し世」
大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」の喜びを体験する為の世界
物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界であり、幻の世界
物理的大宇宙は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
物理的大宇宙の全ては、根本創造主(大宇宙意識)の光の中
全ては、「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」
全ては、根本創造主(大宇宙意識)の弥栄
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
大宇宙意識とは、神や仏という概念を遥かに超えたスーパーな存在
大宇宙の森羅万象の全てが、大宇宙意識により営まれている
時間は幻想
時間は幻想
永遠(とわ)の中今
永遠とは
無始の過去、無終の未来
「時」には、始まりも無ければ終わりも無い
大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)は、不生不滅の実在
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
大宇宙の全てが、元々存在している
絶対世界の「時」と、相対世界(物理的大宇宙)の時間
時空を超越した絶対世界と、「時間と空間」から成る物理的大宇宙
大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在している
大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在している
ありとあらゆる全てのものが、元々存在している
「想像=創造(そうぞう)」し得る限りの全てのものが、元々存在している
大宇宙は、元々完成している
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
大宇宙は元々完成しているから、未来は100パーセント確定している
未来は100パーセント確定している
未来は100パーセント確定している
未来からやって来る時間(時間の流れは、未来→現在→過去)
原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれている
白紙の未来がある訳ではない
未来は変えられるという幻想――未来は変えられない
未来は、これから創られて行くのではなく、ここが既に未来とも言える
ここは、「追想の中」での「追体験」
大宇宙意識と本源の我
大宇宙意識の操り人形
真の意味において、自由意志というものは存在していない
「もし、あの時・・・」という仮定は、存在していない
ただ、そうなっていたから、そうなって行くだけ
「想いは実現する」、「思考は現実化する」とは
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我、真我である我が魂
魂の記憶を蘇らせる
心と感じるままに、生きてみる
生きるとは、創造すること
明日を感じて今日を生きる
未来の記憶を蘇らせる
おわりに
おわりに
未来は100パーセント確定しているということを、ご理解いただけたでしょうか?
例え、表面意識(顕在意識)では理解出来なくても、私たちは、意識の一番奥深くでは、未来が100パーセント確定しているということを、知っています。
何故なら、私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識が内在しているからです。
未来は100パーセント確定しており、未来を変えることは出来ないということに対して、自分には自由が無いと感じた方も多いかも知れません。
しかし、逆説的ですが、自分には自由意志など本当は無いのだと分かった時初めて、人は自由になることが出来るのです。
自分という存在は、大宇宙における一つの役割として存在しており、自分の役割の外へは一歩も出ることは出来ないのだと分かった時初めて、自分の役割を楽しもう、自分の役割を思い切り演じよう、自分の役割を全うしようという覚悟が生まれ、心の自由を得られるようになるのです。
大宇宙における自分の役割とは、自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂が望んだものなので、自分にとって、ピッタリな役割なのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である、大宇宙意識だけなのです。
物理的大宇宙の全ては、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識が、自らが持つ「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を体験して味わう為の「映(うつ)し世」であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
大宇宙意識の全知全能の光が織り成す、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻なのです。
真我である魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つを受け持って、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
この大宇宙に二つと同じものが無い、ある一つの角度・視点(してん)から、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、言わば、「無限」性というものを、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
真我である魂にとっては、体験こそが喜びであり、財産であると言えます。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって最善の出来事の連続なのです。
真我である我が魂は、死に至るまでの自分の未来を、既に知り尽くしています。
そして、死に至るまでの自分の未来の全ては、魂の進化にとって最善の出来事の連続であり、高い目的に叶ったものなので、自分自身にとって、決して悪いようにはなっていないのです。
魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出すことが大切になります。
そして、大宇宙意識の全知全能の光が織り成す幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、言わば、「無限」性というものを体験して味わいながら、生きるという創造の旅を楽しんで行くことが大切になります。
西暦2014年(平成26年)8月吉日
大和富士
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の後書き(おわりに)を、ご紹介致します!
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の後書き(おわりに)を、ご紹介させていただきます。
おわりに
未来は100パーセント確定しているということを、ご理解いただけたでしょうか?
例え、表面意識(顕在意識)では理解出来なくても、私たちは、意識の一番奥深くでは、未来が100パーセント確定しているということを、知っています。
何故なら、私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識が内在しているからです。
未来は100パーセント確定しており、未来を変えることは出来ないということに対して、自分には自由が無いと感じた方も多いかも知れません。
しかし、逆説的ですが、自分には自由意志など本当は無いのだと分かった時初めて、人は自由になることが出来るのです。
自分という存在は、大宇宙における一つの役割として存在しており、自分の役割の外へは一歩も出ることは出来ないのだと分かった時初めて、自分の役割を楽しもう、自分の役割を思い切り演じよう、自分の役割を全うしようという覚悟が生まれ、心の自由を得られるようになるのです。
大宇宙における自分の役割とは、自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂が望んだものなので、自分にとって、ピッタリな役割なのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である、大宇宙意識だけなのです。
物理的大宇宙の全ては、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識が、自らが持つ「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を体験して味わう為の「映(うつ)し世」であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
大宇宙意識の全知全能の光が織り成す、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻なのです。
真我である魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つを受け持って、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
この大宇宙に二つと同じものが無い、ある一つの角度・視点(してん)から、幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、言わば、「無限」性というものを、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
真我である魂にとっては、体験こそが喜びであり、財産であると言えます。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって最善の出来事の連続なのです。
真我である我が魂は、死に至るまでの自分の未来を、既に知り尽くしています。
そして、死に至るまでの自分の未来の全ては、魂の進化にとって最善の出来事の連続であり、高い目的に叶ったものなので、自分自身にとって、決して悪いようにはなっていないのです。
魂のさらなる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出すことが大切になります。
そして、大宇宙意識の全知全能の光が織り成す幻の世であり、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界である、この大宇宙の「無限」の輝き、「無限」の美しさ、「無限」の面白さ、かけがえのなさ、言わば、「無限」性というものを体験して味わいながら、生きるという創造の旅を楽しんで行くことが大切になります。
西暦2014年(平成26年)8月吉日
大和富士
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の前書き(はじめに)を、ご紹介致します!
2014年10月に出版される、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の前書き(はじめに)を、ご紹介させていただきます。
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」
白紙の未来がある訳ではなく
未来は100パーセント確定しています
はじめに
自分の未来は、決まっているのでしょうか?
そして、人類の未来、地球という星の未来は決まっているのでしょうか?
さらには、大宇宙の未来は決まっているのでしょうか?
未来というものは、既に確定しているものなのか、それとも、未来は完全に白紙なのでしょうか?
心の奥深くで、常に知りたかったことだと思います。
結論から先に申しますと、未来は既に決まっており、未来は100パーセント確定しています。
未来は100パーセント確定していますので、白紙の未来がある訳ではありません。
未来が100パーセント確定していることは、知識や学問などによっては知る由もなく、体験的に知る他無いので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。
この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、未来が100パーセント確定しているということを、決して理解出来ないと思います。
この大宇宙の本質というものを、体験的に知ることが出来ると、時間は幻想であること、そして、この大宇宙には、根本創造主(大宇宙意識)という唯一の存在しか実在していないことを知ることになり、未来が100パーセント確定しているということを、確信することが出来るようになります。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
「時」には、始まりも無ければ終わりもありません。
絶対世界に唯一実在しているのは、大宇宙の根本創造主の「純粋意識」のみです。
本書においては、大宇宙意識と呼んでいます。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(現象界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、不生不滅の実在であり、誕生するということも無ければ、消滅するということも無く、「永遠(えいえん)の今」に実在しています。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識のみが実在しており、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全てが存在しているのです。
絶対世界においては、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全て、大宇宙の過去・現在・未来の全てが、元々存在しています。
未来とは、今これから創られていくものではなく、元々100パーセント確定して存在しているものなのです。
例え、表面意識(顕在意識)では分からなくても、私たちは、意識の一番奥深くでは、未来が元々100パーセント確定しているということを、知っています。
何故なら、私たち一人ひとりは、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)の分霊(わけみたま)であり、私たちの意識を一番奥深くまで遡ると、最終的には、大宇宙意識まで辿り着くことになるからです。
私たちの意識の一番奥深くには、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識が内在しています。
ですから、私たち一人ひとりは、意識の一番奥深い部分においては、死に至るまでの自分の人生の全てを知っているだけではなく、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
そのことを想い出していく手助けとして、本書をご活用いただければ、これに勝る喜びはございません。
大和富士
この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけであるということと、未来は100パーセント確定しているということとは、本質的に、同じこと
今月発売の新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」に続き、来月10月には、さらにもう一冊の新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が、出版されます!
「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と、「何故、未来は100パーセント確定しているのか」は、ある意味において、姉妹書とも言える内容になっており、この大宇宙についての、最も本質的な、根源的な内容の書になっていますので、両書を併せてお読みいただくことを、強くお勧め致します!
この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけであるということと、未来は100パーセント確定しているということとは、本質的に、同じことなのです。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、時間というものは存在しておらず、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
「時」には、始まりも無ければ終わりもありません。
大宇宙の根本主体であり、根本創造主である大宇宙意識は、不生不滅の実在であり、誕生するということも無ければ、消滅するということも無く、「永遠(えいえん)の今」に実在しています。
大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(相対世界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界においては、ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」の中に、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識だけが実在しており、大宇宙意識という「純粋意識」の中に、大宇宙の全てが存在しているのです。
絶対世界においては、大宇宙の全て、大宇宙の過去・現在・未来の全ては、元々存在しているのです。
未来とは、今これから創られていくものではなく、元々存在しているものであり、既に100パーセント確定しているものなのです。
新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が、2014年10月に出版されます!
9月15日発売の新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」に続き、さらにもう一冊、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」が、2014年10月に出版されます!
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」と、「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」は、ある意味において、姉妹書とも言える内容になっています。
ぜひ、新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」と、新著「何故、未来は100パーセント確定しているのか」の二冊を、併せてお読みいただくことを、強くお勧め致します!
全国の書店での発売に先立ち、書籍が完成し次第、当ホームページにて先行販売を開始致します。
詳細につきましては、後日改めてお知らせ致しますので、どうぞお楽しみに!
「何故、未来は100パーセント確定しているのか」
白紙の未来がある訳ではなく
未来は100パーセント確定しています
目 次
はじめに
大宇宙の真相
大宇宙における実相(本質)の世界と、仮相(仮の姿)の世界
絶対世界――大宇宙の実相(本質)の世界とは
相対世界――大宇宙の仮相(仮の姿)の世界とは
想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
根本創造主が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事
大宇宙=無限
大宇宙の本質の世界(絶対世界)には、時間も空間も存在しない
全ては、根本創造主(大宇宙意識)の顕れ
大宇宙の森羅万象を貫く根源的エネルギーは一つ
大宇宙意識の見えざる糸(意図(いと))
全ては大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然なし
この大宇宙に本当に実在しているのは、根本創造主(大宇宙意識)だけ
大宇宙意識を映し出す「鏡」――物理的大宇宙は「映(うつ)し世」
大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」の喜びを体験する為の世界
物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界であり、幻の世界
物理的大宇宙は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
物理的大宇宙の全ては、根本創造主(大宇宙意識)の光の中
全ては、「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」
全ては、根本創造主(大宇宙意識)の弥栄
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
大宇宙意識とは、神や仏という概念を遥かに超えたスーパーな存在
大宇宙の森羅万象の全てが、大宇宙意識により営まれている
時間は幻想
時間は幻想
永遠(とわ)の中今
永遠とは
無始の過去、無終の未来
「時」には、始まりも無ければ終わりも無い
大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)は、不生不滅の実在
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
大宇宙の全てが、元々存在している
絶対世界の「時」と、相対世界(物理的大宇宙)の時間
時空を超越した絶対世界と、「時間と空間」から成る物理的大宇宙
大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在している
大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在している
ありとあらゆる全てのものが、元々存在している
「想像=創造(そうぞう)」し得る限りの全てのものが、元々存在している
大宇宙は、元々完成している
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
大宇宙は元々完成しているから、未来は100パーセント確定している
未来は100パーセント確定している
未来は100パーセント確定している
未来からやって来る時間(時間の流れは、未来→現在→過去)
原因があって結果があると言うより、原因は結果によって選ばれている
白紙の未来がある訳ではない
未来は変えられるという幻想――未来は変えられない
未来は、これから創られて行くのではなく、ここが既に未来とも言える
ここは、「追想の中」での「追体験」
大宇宙意識と本源の我
大宇宙意識の操り人形
真の意味において、自由意志というものは存在していない
「もし、あの時・・・」という仮定は、存在していない
ただ、そうなっていたから、そうなって行くだけ
「想いは実現する」、「思考は現実化する」とは
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我、真我である我が魂
魂の記憶を蘇らせる
心と感じるままに、生きてみる
生きるとは、創造すること
明日を感じて今日を生きる
未来の記憶を蘇らせる
おわりに
人類の意識がどんなに進化しても無くならない宗教とは――「無限」の宗教
この二一世紀において、私たち人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生することになります。
私たち人類の意識が飛躍的に進化するに伴い、既存の宗教の多くは、その存在意義を失い、次第に役割を終えていくことになるでしょう。
しかし、私たち人類の意識がどんなに進化しても、決して無くならない宗教というものが、あります。
それは、「無限」の宗教とでも呼ぶべきものであり、大宇宙そのものへの信仰なのです。
この大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主に対する信仰なのです。
物理的大宇宙に存在している全ての被創造物は、例えどんなに高次元の存在であったとしても、究極的な信仰というものを持っています。
この物理的大宇宙において、決して無くなることの無い、究極的な宗教とは、「無限」の宗教なのです。
大宇宙そのものへの信仰であり、大宇宙そのもののことを、「無限」と表現するならば、「無限」への信仰であり、「無限」の宗教とでも呼ぶべき宗教なのです。
この大宇宙の根本主体・根本創造主に創造され、大宇宙に生かされている存在は皆、例え如何なる存在であったとしても、この大宇宙そのものへの畏敬の念、感謝の念を持っており、例えどんなに進化したとしても、それが無くなることは無いからです。
この大宇宙の根本主体・根本創造主に対する信仰、大宇宙そのものへの信仰、言わば、「無限」というものへの信仰というものは、決して無くなることはありません。
以前「無限の宗教――絶対の宗教、永遠の宗教」の中で書きましたが、「無限」の宗教とは、絶対の宗教であり、永遠の宗教なのです。
実は、世界の主な宗教の中で、神や仏と表現されている存在たちが持っている、唯一の信仰が、「無限」の宗教なのです。
「世界の主な宗教の源は一つ」の中で書きましたが、世界の主な宗教の源は一つであり、「地球神界」とでも呼ぶべき、地球の全生命を直接創造した存在たちの世界が、その起源となっています。
聖書においては、「神」と訳されています。
しかし、旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれている通り、地球の全生命を直接創造した存在たちと私たち人間は似ており、私たち人間と同じように、姿・形を持った存在たちなのです。
無形の超自然の神が、地球の全生命を直接創造した訳ではなく、地球の全生命を直接創造したのは、あくまでも、私たち人間と同じように、姿・形や名前を持った存在たちなのです。
世界の主な宗教において、神や仏として表現されている存在たちというのは、あくまでも、姿・形や名前を持った存在たちであり、この大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは違います。
「神や仏という概念を超えて」の中で書きましたが、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
世界の主な宗教において、神や仏として表現されている存在たちも、あくまでも、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識によって「想像=創造(そうぞう)」され、生かされている存在なので、根本創造主(大宇宙意識)への信仰を持っており、「無限」の宗教を持っているのです。
「無限」の宗教、それは、絶対の宗教であり、永遠の宗教です。
将来、私たち人類が、宇宙レベルの意識状態に到達した時、全ての人々が、「無限」の宗教を信仰するようになるでしょう。
神や仏という概念を超えて
この大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、神や仏という概念を遥かに超えた、もっとスーパーな存在です。
この大宇宙の唯一の実在である大宇宙意識とは、私たち人間が、神や仏という言葉からイメージするような概念を遥かに超えた、もっとスーパーな存在なのです。
神や仏という言葉には、私たち人間が抱くイメージが多分に入っており、多少なりとも人間味を帯びた存在となっています。
仏像などの多くは、慈悲深い表情で創られており、中には、不動明王のように憤怒の相の仏像などもあります。
神話などには、神の怒りや、神の嫉妬などが記されており、人間味を帯びた一面が記されています。
また、仏像や宗教画などにおいても、私たち人間と同じような姿・形で、神や仏を表現しています。
しかし、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、そのような、人間味を帯びた存在などでは全くありません。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(現象界)の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙の根本創造主とは、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋なる意識そのもの」なので、根本創造主には、姿・形などありませんし、もちろん、名前などありません。
私は、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。
大宇宙の実相(本質)の世界である絶対世界とは、非物質な世界であり、そこに唯一実在しているのは、大宇宙の根本創造主の「純粋意識」だけなのです。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識と、宗教的世界観における神や仏とは、違います。
以前、「世界の主な宗教の源は一つ」の中で書きましたが、世界の主な宗教の源は一つであり、「地球神界」とでも呼ぶべき、地球の全生命を直接創造した存在たちの世界が、その起源となっています。
聖書においては、「神」と訳されています。
しかし、旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれている通り、地球の全生命を直接創造したのは、私たち人間と同じように、姿・形を持った存在たちなのです。
無形の超自然の神が地球の全生命を直接創造した訳ではなく、地球の全生命を直接創造したのは、あくまでも、私たち人間と同じように、姿・形や名前を持った存在たちなのです。
ですから、宗教的世界観の中では、神や仏というものが、私たち人間と同じような姿・形で表現されており、感情を持った人間味を帯びた存在としてイメージされていることには、それなりの理由・背景があるのですが、宗教における神や仏という概念と、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識とは、分けて考える必要があります。
愛や慈悲の心で、私たち個人の願い事を聞き入れてくれる神や仏、あるいは、愛や慈悲の心で、私たち人類を救済してくれる神や仏、そのような概念を遥かに超えた、もっとスーパーな存在が、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識なのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識だけなのです。
大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙(現象界)の全ては、根本創造主(大宇宙意識)が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、全ては、「根本創造主(大宇宙意識)の顕れ」なのです。
まずは、このことを理解する必要があります。
新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の内容を、ご紹介致します!
新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の内容を、ご紹介致します!
四六判 270ページ
価 格 本体1400円+税
発 行 表現社(表現社図書)
はじめに
この大宇宙には、たった一つの存在しか実在していません。
この大宇宙に、本当に実在しているのは、たった一つの存在なのです。
それは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主という存在なのです。
本書においては、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。
物理的大宇宙の全ては、根本創造主である大宇宙意識によって「想像=創造(そうぞう)」された世界であり、全てが大宇宙意識の光の中にあり、そこに存在している全てのものは、大宇宙意識の顕れに他なりません。
この大宇宙の森羅万象の全ては、根本創造主である大宇宙意識によって繰り広げられている壮大なゲームであり、全ては「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」と呼べるものなのです。
物理的大宇宙の全ては、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識が、自らが持つ「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を体験して味わう為の「映(うつ)し世」であり、「鏡」の世界なので、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界なのです。
これを知ることが、本質的に最も大切なことであり、このことが理解出来て初めて、自分という存在は何なのか、自分は何故今ここに存在して生きているのか、自分が映す現実世界とは何なのか、という謎も解けてきます。
ただ、この大宇宙に本当に実在しているのは、唯一、根本創造主である大宇宙意識のみであることは、知識や学問などによっては知る由も無く、体験的に知る他無いので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。
しかし、体験的に知らなくても、私たち人間一人ひとりは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)なので、私たち一人ひとりの「意識」を一番奥深くまで遡れば、最終的には、根本創造主である大宇宙意識まで辿り着くことになります。
ですから、私たち人間一人ひとりは、「意識」の一番奥深い部分においては、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)とは、宇宙空間の何処か彼方に存在しているのではありません。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識とは、全知全能の「純粋意識」として存在しており、それは、私たち一人ひとりの「意識」の一番奥深くに内在しているものなのです。
そのことを想い出していく手助けとして、本書をご活用頂ければ、これに勝る喜びはございません。
大和富士
目 次
はじめに
根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在
根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在
絶対世界と相対世界
絶対世界とは
根本創造主(大宇宙意識)とは、全知全能の「純粋意識」
想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
根本創造主が唯一行っているのは、「想像=創造(そうぞう)」という仕事
相対世界とは、絶対世界を映し出して体験する為の「映(うつ)し世」
全ては、根本創造主(大宇宙意識)の顕れ
物理的大宇宙(相対世界)は、仮相(仮の姿)の世界
物理的大宇宙は、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界
物理的大宇宙の全ては、根本創造主(大宇宙意識)の光の中
全ては、「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」
根本創造主(大宇宙意識)の孤独
全ては、根本創造主(大宇宙意識)の弥栄
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
宇宙的な観点の中では、善悪は存在していない
多様性こそが大宇宙の豊かさ
大宇宙=無限
「あり得ない」ということこそ「あり得ない」――あらゆることがあり得る
神についての二つの概念
「意識」の一番奥深くに内在している根本創造主(大宇宙意識)
永遠(とわ)の中今
永遠(とわ)の中今
永遠とは
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
大宇宙意識の見えざる糸(意図)
全ては大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然なし
過去も未来も、今、同時に存在している
未来からやって来る時間
未来は一〇〇パーセント確定している
大宇宙の過去と未来の全てが、元々存在している
大宇宙の全ての時空が、元々存在している
ありとあらゆる全てのものが、元々存在している
「想像=創造(そうぞう)」し得る限りの全てのものが元々存在している
大宇宙の全ては、元々完成している
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
大宇宙意識と本源の我
大宇宙意識と本源の我
「意識」の中に大宇宙がある
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある
物質世界を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」
「意識」というものは、それを映し出す「鏡」が必要
ここは「意識」の海の中
一人ひとりが自分の宇宙(世界)の創造主
現実世界とは
自分一人の世界
全てが主観の世界
自分が変われば世界が変わる
心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
生きる目的
今ここに自分が存在している理由
今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない
魂を自分の肉体の外に想像
多次元に生きる、本源の我
永遠の旅をしている我が魂の夢
魂にとっては、体験こそが喜びであり財産
魂の進化
魂の願い
心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
魂の進化の場として与えられた運動場
魂の進化としての道の最短距離
魂の夢
今を良しとする力、全てを完として捉える力
どれだけの「意識」を創れたかが大切
自分を解放するプログラム
自分の唯一のプログラム
本当は誰もいない――ただ大宇宙がある
全ては我が魂の計画の中
魂の記憶を蘇らせる
魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだったことを想い出す
人生は一〇〇パーセント決まっている
大宇宙意識の操り人形
「想いは実現する」とは
ここは「追想の中」
自分の中に全ての答えがある
明日を感じて今日を生きる
心と感じるままに、生きてみる
生きるとは、創造すること
今、目の前にある道が、黄金の道
現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
空間を最高の友として遊ぶ
豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる
魂の夢、光り輝く魂
幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る
自分の中に内在している、大宇宙意識の想いを感じて生きる
おわりに
おわりに
この大宇宙は、「意識」というものによって成り立っています。
この大宇宙を「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」というものなのです。
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識という、一つの「純粋意識」だけなのです。
現象界である物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識の顕れに他なりません。
本源の我であり、真我である、我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとして、ある一つの角度・視点(してん)から、この大宇宙を映し出し、体験して味わっている支店(してん)の中の一つなのです。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、自分自身の「意識」の中にあるものなのです。
そして、自分の「意識」の一番奥深くには、大宇宙の根本主体である大宇宙意識が内在しています。
ですから、自分の中には、この大宇宙の全てがあるのです。
自分の「意識」の中にある、「無限」の大宇宙を感じて生きることが大切になります。
自分の中に内在している、大宇宙意識の想いを感じて生きることが大切になります。
西暦二〇一四年(平成二六年)四月吉日 大和富士
新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の前書き(はじめに)を、ご紹介させていただきます
新著「根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在」の前書き(はじめに)を、ご紹介させていただきます。
はじめに
この大宇宙には、たった一つの存在しか実在していません。
この大宇宙に、本当に実在しているのは、たった一つの存在なのです。
それは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主という存在なのです。
本書においては、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。
物理的大宇宙の全ては、根本創造主である大宇宙意識によって「想像=創造(そうぞう)」された世界であり、全てが大宇宙意識の光の中にあり、そこに存在している全てのものは、大宇宙意識の顕れに他なりません。
この大宇宙の森羅万象の全ては、根本創造主である大宇宙意識によって繰り広げられている壮大なゲームであり、全ては「大宇宙意識の戯れ(リーラ)」と呼べるものなのです。
物理的大宇宙の全ては、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識が、自らが持つ「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を体験して味わう為の「映(うつ)し世」であり、「鏡」の世界なので、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界であり、幻の世界なのです。
これを知ることが、本質的に最も大切なことであり、このことが理解出来て初めて、自分という存在は何なのか、自分は何故今ここに存在して生きているのか、自分が映す現実世界とは何なのか、という謎も解けてきます。
ただ、この大宇宙に本当に実在しているのは、唯一、根本創造主である大宇宙意識のみであることは、知識や学問などによっては知る由も無く、体験的に知る他無いので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。
しかし、体験的に知らなくても、私たち人間一人ひとりは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)なので、私たち一人ひとりの「意識」を一番奥深くまで遡れば、最終的には、根本創造主である大宇宙意識まで辿り着くことになります。
ですから、私たち人間一人ひとりは、「意識」の一番奥深い部分においては、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)とは、宇宙空間の何処か彼方に存在しているのではありません。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識とは、全知全能の「純粋意識」として存在しており、それは、私たち一人ひとりの「意識」の一番奥深くに内在しているものなのです。
そのことを想い出していく手助けとして、本書をご活用頂ければ、これに勝る喜びはございません。
大和富士
心の源は、静かな心であり、常に豊かな心
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
本源の我であり、真我である魂は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、永遠不滅の存在です。
自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
自分の現実の全ては、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、最善の出来事なのです。
魂の進化を求めて、永遠の旅をしている我が魂にとっては、全ての体験が喜びであり、財産であると言えます。
ただ、肉体の自我意識(表面意識)では、そのことが分からないので、自分の思い通りでないことを、不幸・不運と決めつけ、不足・不満を感じて、もがき苦しみ、大騒ぎしているだけなのです。
心の源である魂は、少しも騒いではおらず、静かな心なのです。
心の源は、常に静かな心であり、常に豊かな心なのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識)では、死にたくなる程、悩み、もがき苦しんでいたとしても、心の源は、少しも騒いではいません。
心を静め、落ち着いて、静かに感じてみれば、心の奥深くに、もう一人の自分、本当の自分自身がいることを、感じられます。
本源の我であり、真我である魂は、何時如何なる時も、静かな心であり、少しも苦しんではいないのです。
心の源は、少しも騒いではいません。
心の源は、常に静かな心であり、常に豊かな心なのです。
自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である魂にとっては、全ての体験が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した喜びの体験なのであり、魂の進化にとって最善の出来事なのです。
本源の我の本当の輝きを、魂の輝きを、常に忘れないことが大切になります。
我が魂が豊かであることを、想い出すことが大切になります。
我が魂が豊かであることを、信じることが大切になります。
何時如何なる時も、本源の我である魂は、常に豊かな心であり、輝いているのです。
魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化にとって最善の出来事を「想像=創造(そうぞう)」し続け、永遠の旅をしている、我が魂の夢を想い出すことが大切になります。
不幸・不運、思い通りでないと感じるところの全ては、ただ、真我である魂との折り合いが付いていないだけ
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
我が魂は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、永遠不滅の存在です。
自分の人生の全ては、本源の我であり、真我である、我が魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
自分の人生の真の創造主は、他ならぬ自分自身なのです。
本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事とは違います。
魂の関心事は、魂の進化ということであり、光り輝く魂になることなのです。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化ということであり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていくことなのです。
一方、肉体の自我意識(表面意識)の関心事は、多くの人にとっては、健康・長寿、お金・富、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の家庭、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、豊かな人間関係、というようなことになるのかも知れません。
このように、本源の我であり、自分の人生の主体者・創造者である魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事には、差(ギャップ)があります。
自分の現実の全ては、自分の人生の主体者・創造者である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって、最善の出来事なのです。
ただ、肉体の自我意識(表面意識)では、そのことが分からないだけなのです。
本源の我であり、自分の人生の主体者・創造者である、我が魂の意図が分からないだけなのです。
肉体の自我意識(表面意識)が、不幸・不運、思い通りでないと感じるところの全ては、ただ、本源の我・真我であり、自分の人生の主体者・創造者である、我が魂との折り合いが付いていないだけのことなのです。
心が純化し、意識が福化し、拡張した意識になれば、自分の現実の全ては、決して悪くはないのだと分かるようになります。
拡張した意識になり、自分の人生の主体者・創造者である魂の意図が感じられるようになると、本源の我である魂との折り合いが付いて、自分の現実の全ては、決して悪くはないのだと感じられるようになります。
本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事には、差(ギャップ)がありますので、この差(ギャップ)が、悩み・苦しみの原因にもなっているのです。
本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事との差(ギャップ)を取ることが、「差取り=悟り(さとり)」ということでもあります。
本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事との差(ギャップ)が大きければ大きい程、それだけ折り合いが付いていないということなので、悩み・苦しみは大きくなります。
私たちの人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分の人生に起きる全ての現実は、魂の進化にとって、最善の出来事の連続なのです。
真我である魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」した、最善の出来事なのです。
ただ、そのことが、肉体の自我意識(表面意識)では、分からず、折り合いが付いていないだけなので、不幸・不運、思い通りでないと感じて、悩み、苦しんでいるだけなのです。
本源の我であり、真我であり、自分の人生の主体者・創造者である、我が魂との折り合いを付けていくことが、心の成長であり、意識の福化と呼べるものなのです。
真我である魂との折り合いが付けば付く程、自分の現実の全ては、決して悪くはないのだと感じられるようになります。
そして、人生はさらに面白く感じられ、生きているうれしさをやさしく感じられるようになるのです。
魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になることを夢見て、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出すことが大切になります。
現実は、幻の箱
自分が映す現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色、言わば、幻です。
自分の心の中にある心象風景とでも言うべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているだけなので、全ては自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドなのです。
自分の脳が情報処理・画像処理した結果を、空間という、360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、テレビや映画を見ているのと同じような状態であると言えます。
自分の脳が情報処理・画像処理した結果を、モニターで見ているようなものなのです。
自分が見ている現実世界とは、言わば、自分の脳が創り出した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがある訳ではなく、現実世界とは、自分の脳が創り出した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界なのです。
自分が映す現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、自分の脳が創り出した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の世界なので、現実とは幻の箱なのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがある訳ではありません。
現実世界とは、自分の内面の世界であり、自分の脳が創り出した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の箱なのです。
自分が映す現実世界とは、自分の意識を投影した、バーチャルな幻の箱なので、自分自身の意識が変われば、現実という幻の箱も変わります。
意識が変わる時は、一瞬なのです。
自分自身の意識が変われば変わった分だけ、現実世界は、違ったふうに見えてきます。
自分自身の意識が変われば変わった分だけ、現実世界に対する捉え方・認識が変わるのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがある訳ではないということなのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な現実世界というものがあると考えているうちは、まだ、本来の創造の出発点に立っているとは言えません。
自分が映す現実世界とは、自分の意識を投影した内面の世界、インナーワールドであり、自分の脳が創り出した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の幻の箱だと認識出来たところから、本来の創造が始まります。
「幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る」という、本来の創造、新たな創造の旅が、そこからようやく始まるのです。
脳は、アンテナ(受信機)
私たちの脳は、アンテナのような、受信機・受信装置の役割をしています。
私たちは、自分の脳で考えていると言うよりは、脳がアンテナの役割をして、様々な思考・情報をキャッチして、受信していると言ったほうが良いかも知れません。
目には見えませんが、宇宙空間には、様々な無数の思考・情報・データが存在しており、私たちの脳は、アンテナのような、受信機・受信装置の役割をして、それらの情報をキャッチしているのです。
目には見えませんが、空間には、テレビ放送局やラジオ放送局の発信する電波が存在しており、それに周波数を合わせれば、テレビ放送を見ることが出来たり、ラジオ放送を聴くことが出来ます。
それと同じように、宇宙空間には、様々な無数の情報・データ・思考というものが存在しており、私たちの脳は、それを受信するアンテナのような役割を果たしているのです。
私たちは、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは一呼吸すら出来ない存在なので、純粋に自分自身の力で何かを為していることなど、本当は、何一つ無いのです。
私たちが、自分の頭(脳)で考えていると思っていることすら、本当は、自分自身の力で考えている訳ではなく、宇宙空間に無数に存在している、様々な思考の断片、様々な情報やデータの断片を脳がキャッチして、受信しているだけのことなのです。
よく、偉大な発明やアイデア、偉大な芸術作品などは、直感やひらめきから生まれた、というようなことが言われますが、それは当然のことなのです。
何故なら、偉大な発明やアイデア、偉大な芸術作品と呼ばれるものも、元々宇宙空間に存在していたデータ・情報・思考なのであり、それを世に出す役割の人が、然るべき時に、それらの情報・データを脳でキャッチ(受信)して、形にしただけのことだからです。
発明家や芸術家自身の力で、それらの偉大な発明や創作が行われた訳ではなく、発明家や芸術家が、役割として、宇宙空間に存在しているデータ・情報・思考を、世に表し、形にする役割を果たしたのです。
未来において、これから世に出てくる、偉大な発明やアイデア、偉大な芸術作品、偉大な科学技術・テクノロジーなどの全ては、今既に、宇宙空間に存在している情報・データ・思考なのです。
そして、それを発明して世に公表したり、それを形にして創作したり、具現化する役割の人たちが、然るべき時に、それらの情報・データを脳でキャッチ(受信)して、世に表していくことになるのです。
私たちの脳が、アンテナのような、受信機・受信装置の役割をして、宇宙空間に存在している、様々な無数の思考・情報・データをキャッチ(受信)しているということと、私たちの運命とは、密接に関わっており、それを司っているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識なのです。
そのことについては、別の機会に、また改めて書いてみたいと思います。
意識を変えるというより、意識とは、変わるもの
自分の意識を変えようと心掛けることは出来ますが、意識とは、変えるというより、変わるものなのです。
意識は、瞬間瞬間、変わっています。
そして、自分の意識が、いつ、どのようにして変わるのかは、全て決まっています。
自分の意識を変えようと努力することは出来ますが、自分の意識が、いつ、どのようにして変わるのかは、全て、予め決まっているのです。
私たちが、普段、あれこれと考えている意識は、表面意識(顕在意識)と呼ばれるような、氷山の一角の部分であり、水面下には、潜在意識・無意識と呼ばれるような部分があり、さらに奥深くには、ユングが「集合的無意識」と呼んだような、「個」の意識を超えた、人類全体の集合意識のような部分があります。
そして、自分自身の意識を一番奥深くまで遡ると、最終的には、大宇宙の根本主体・根本創造主の意識に辿り着くことになります。
私は、便宜上、大宇宙意識と呼んでいます。
大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」なのです。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、大宇宙の森羅万象の全てには、大宇宙意識の見えざる糸(意図)が働いています。
大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図)により、営まれているのです。
私たちの意識の一番奥深くに存在しているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識であり、私たちの意識を司っている大元は、大宇宙意識なのです。
自分の意識が、いつ、どのように変わるのかは、大宇宙意識が司っているのであり、大宇宙意識の計画の中にあるのです。
自分の意識を変えようと努力することは出来ますが、自分の意識が、いつ、どのように変わるのかは、意識の最深部にある大宇宙意識が司っているのであり、全ては予め決まっていますので、自分自身の力で、自分の意識を変えられるという訳でもないのです。
潜在意識というものが、私たちの性格や運命に大きく作用していますので、潜在意識を変えれば、人生が変わるというようなことが、巷の本などには、よく書かれているかと思います。
書店などには、そのようなことが書かれた本が、たくさんあるのではないかと思います。
そのことは、ある面においては本当なのですが、あくまでも一面の真理にしか過ぎず、あまり深い叡智とは言えないと思います。
何故なら、潜在意識というものが、私たちの意識の一番奥深くにあるものではないからです。
私たちの潜在意識・無意識を司っている一番の大元は、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識なのです。
自分の潜在意識が変わるのかどうか、いつ、どのようにして変わるのかは、全て、大宇宙意識が司っているのであり、予め、全て決まっているのです。
純粋に「個」としての意識というものは、存在していません。
自分「個人」の意識というものは、本当は、無いのです。
私たちは皆、大宇宙における役割の中で存在していますので、自分の意識というものも、大宇宙における役割と密接に関わっており、それを司っているのは、大宇宙意識なのです。
自分の意識というものと、自分の運命とは、密接に関わっており、それを司っているのは、大宇宙意識なのです。
自分の意識を変えようと努力することは出来ますが、意識とは、変えるというより、変わるものであり、それを司っているのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識なのです。
「もし、あの時・・・」という仮定は存在していない
私たちは、自分の過去を振り返った時、「もし、あの時〜していれば、今は違った状況にいる筈なのに・・・」と、後悔にも似た思いを抱くことがあります。
自分の人生を振り返ると、過去には様々な選択肢があったようにも感じられ、「もしもあの時、別の選択をしていれば、今は別の人生を歩んでいる筈なのに・・・」と感じることも多々あるかと思います。
しかしながら、実際には、「もし、あの時・・・」という仮定というものは、存在していません。
「もしもあの時、別の選択をしていれば、今の自分は違う状況にいる筈なのに・・・」と考えるのは、自分自身の力で生きているという勘違い・錯覚にしか過ぎません。
私たちは、大宇宙に生かされている存在であり、自分自身の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なので、自分の力で何かをやっているということなど、本当は、何一つ無いのです。
私たちは、表面意識であれこれ考えて、自分の人生の選択をしているように思えますが、最終的な選択は、意識のより深い部分にある、真我である魂が、自分の人生の全ての選択をしています。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂なのです。
本源の我であり、真我である、我が魂というのは、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の分霊(わけみたま)です。
私たちの意識を一番奥深くまで遡ると、最終的には、大宇宙の根本主体であり、大宇宙の根本創造主である、大宇宙意識まで辿り着くことになります。
ですから、表面意識であれこれ考えて自分の人生の選択をして来たと思っていても、その背後には、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の見えざる糸(意図)が働いています。
自分の人生の選択の全ては、大宇宙の根本主体・根本創造主である大宇宙意識の見えざる糸(意図)によるものなのです。
この大宇宙に本当に実在しているのは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)だけなのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、ある一つの力学・法則の元、大宇宙意識の見えざる糸(意図)により営まれています。
自分の人生の過去の選択の全ては、大宇宙意識の見えざる糸(意図)によるものであり、他に選択の余地は無かったのです。
自分の過去を振り返り、「もしもあの時、別の選択をしていれば、今は違った状況にいる筈なのに・・・」と、後悔にも似た思いを抱くことは無益なことです。
「もし、あの時・・・」という仮定そのものが、元々存在していなかったからです。
私たちの人生とは、瞬間瞬間の選択の連続であり、何十年も生きていれば、それこそ、無数の選択をして来たとも言えます。
自分一人の人生を振り返っただけでも、「もし、あの時・・・」という仮定は無数に存在するかのように思えますが、地球上に生きる何十億人の人間が一人ひとり抱く、「もし、あの時・・・」という無数の仮定というものは、果たして存在していたのでしょうか?
実際には、そのような仮定は、元々存在していなかったのです。
自分の人生は元より、人類の歴史・地球の歴史、更には銀河レベルの歴史に至るまで、一点一角が違っても、今と同じ状況というものは存在していません。
自分の人生は元より、人類の歴史・地球の歴史、更には銀河レベルの歴史に至るまで、過去の全ては、寸分の狂いも無く、大宇宙意識の見えざる糸(意図)により動いて来たのであり、「もし、あの時・・・」という仮定というものは、元々存在していなかったのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、大宇宙の根本主体である大宇宙意識の計画の中にあります。
自分の人生は元より、人類の歴史・地球の歴史、更には銀河レベルの歴史に至るまで、過去の全ては、大宇宙の計画の中で動いてきたのであり、ただ、「そうなっていたから、そうなっている」だけのことなのです。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」が、本日5月15日、発売日を迎えました!
書籍「魂の夢、光り輝く魂」が、本日5月15日、発売日を迎えました!
既に、全国の書店並びにアマゾン等のオンライン書店でも、販売が開始されています。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、21世紀の新しい世界観「開眼世界観」に基づき、自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂の視点から、生きるということの本質について光を当てた書であり、生きるとは何かについて知る為の必読の書とも言える内容になっています。
ぜひ、本書をお読みいただき、魂の蘇り、魂の出産、魂の春を迎える為の一助にしていただければ、これに勝る喜びはございません。
書籍の内容につきましては、「書籍のページ」をご参照下さい。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、電子書籍でもご購読いただけます!
電子書籍には、EPUB方式(Amazon Kindle、楽天KOBO、紀伊国屋書店Kinoppyなど)とXMDF方式(GALAPAGOS STORE、ドコモ dマーケット BOOKストアなど)の2種類がありますが、両方に対応しておりますので、ほとんどの主な電子書店にてご購読が可能となります!
電子書籍での配信開始は、5月下旬頃になる予定です。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」の先行販売を開始致します!
書籍「魂の夢、光り輝く魂」が完成致しました!
全国の書店並びにアマゾン等のオンライン書店での発売日5月15日に先駆けて、先行販売を開始致します!
書籍の内容につきましては、「書籍のページ」をご参照下さい。
ご注文は、「ご注文・ご予約ページ」からお願い致します。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」は、電子書籍でもご購読いただけます!
電子書籍には、EPUB方式(Amazon Kindle、楽天KOBO、紀伊国屋書店Kinoppyなど)とXMDF方式(GALAPAGOS STORE、ドコモ dマーケット BOOKストアなど)の2種類がありますが、両方に対応しておりますので、ほとんどの主な電子書店にてご購読が可能となります!
電子書籍での配信開始は、5月下旬頃になる予定です。
さなぎから蝶への飛翔――今までの人類は、さなぎでしかなかった
この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生することになります。
有史以来数千年の人類は、あくまでも、まだ、さなぎでしかありませんでした。
この21世紀において、私達人類は、さなぎから蝶へと飛翔することになるのです。
過去の歴史上における、どんな偉大な人物ですら到達出来なかったような意識レベルに、全人類が到達する時代を迎えることになるのです。
「さなぎ」と「蝶」とでは、同じ生き物とは言っても、もはや、まるで違う生き物に進化を遂げることになるのです。
そういう意味においては、「さなぎ」の時代の人間に、「蝶」の時代のことは、分からないのです。
どんな傑出した人物であっても、その人物が生きている時代というものの制約を受けて生きています。
例えば、ほんの数百年前までは、私達人類は、地球がこの大宇宙の中心にあり、地球の周りを太陽が回っているという、天動説を信じ込んでいましたが、天動説が間違いであることを、現代の私たちなら知っています。
現代に生きる私たちは、この大宇宙には、少なくとも数千億もの銀河があり、その中の一つの銀河である天の川銀河の中にも、数千億もの太陽(恒星)があり、その中の一つの太陽(恒星)の周りを回っている、小さな惑星が、私たちが住む地球という星であることを知っています。
天動説が地動説に変わるようなコペルニクス的大転回、意識の大変革を、私たち人類は、これから経験することになるのです。
有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えています。
この21世紀において、私たち人類の意識が飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生することは、太古の昔から決まっていた天のプログラムなのです。
有史以来数千年の人類の歴史の全ては、この21世紀に私たち人類が真の黄金時代に到達する為のプロセスだったのです。
私たち人類が、さなぎから蝶へと進化して飛翔した時、もはや、さなぎの時代には想像だになかった新しい世界が花開くことになります。
「蝶」へと飛翔した、想像だにない未来のことは、「さなぎ」の時代の人間には、想像も出来ないのです。
私たち人類の意識が飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生するという、この時代に生まれて来ることは希であり、私たちは今、稀有の時代を生きているのです。
書籍「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!
2014年(平成26年)5月15日発売、書籍「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!
電子書籍には、EPUB方式(Amazon Kindle、楽天KOBO、紀伊国屋書店Kinoppyなど)とXMDF方式(GALAPAGOS STORE、ドコモ dマーケット BOOKストアなど)の2種類がありますが、両方に対応しておりますので、主な電子書店にてご購読が可能となります!
はじめに
生きるとは何か・・・。
古今東西を問わず、全ての人々にとっての根源的な問いである、生きるとは何を意味するのでしょうか。
生きるとは何かについて知る為には、まず、この大宇宙の本質について知る必要があります。
そして、大宇宙と自分自身との関係を知る必要があります。
そして、自分が映す現実世界とは何なのかについて知る必要があります。
この三つの要点をきちんと把握しない限りは、生きるという事の本質は捉えられないと思います。
この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えています。
本書において、新たな世界観に基づき、生きるとは何かについて、考察してみたいと思います。
大和富士
目 次
はじめに
大 宇 宙
絶対世界と相対世界
根本創造主という唯一の実在
全ては、神の顕れ
想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
大宇宙=無限
永遠(とわ)の中今
永遠とは
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
「あり得ない」という事こそ「あり得ない」―あらゆる事があり得る
大宇宙の全ては、光の中
物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界
全ては、神の戯れ(リーラ)
根本創造主の孤独
絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
全ては、大宇宙(神)の弥栄
大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
全ては、大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然なし
未来からやって来る時間
未来は、確定的に存在している
大宇宙は、多重多次元構造
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
新しい世界観
大宇宙意識と本源の我
意識の中に大宇宙がある
一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
現実世界とは
自分一人の世界
全てが主観の世界
自分が変われば世界が変わる
心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
魂の進化
魂の願い
心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
魂の進化の場として与えられた運動場
魂の夢
今を良しとする力、全てを完として捉える力
どれだけの意識を創れたかが大切
自分を解放するプログラム
自分の唯一のプログラム
本当は誰もいないーただ大宇宙がある
魂の進化としての道の最短距離
全て幻、全て問題なし
思い通りでないところが、全て思い通りだと気付く
困る出来事あらず
人のせい、社会のせいなど存在しない
後悔するという思考を消滅へと向かわせる
映る世に心を傾けない
幸福なるもの形にあらず
幸・不幸という概念を超える
プラス思考を超える
受ける難、全て福
人生の悩み・苦しみの根底にあるもの その1
人生の悩み・苦しみの根底にあるもの その2
幻の世と知って生きる事に、生命の輝きを見る
人は常に、自分が最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる
現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
宇宙はメッセージだらけ
真のワンネスとは
真(まこと)のみを映す鏡
全ては愛のメッセージ
生きるとは、創造する事
全てを喜びに変える創造
この世界は自分次第
空間を最高の友として遊ぶ
豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる
あらゆる否定を無くする
この世にあるもの全てが御魂の肥やし
肉体という衣について
自分の両親を自ら選んで生まれて来ている
多次元に生きる、本源の我
魂を自分の肉体の外に想像
今ここに生きる事が、常なるテーマ
ここは「追想の中」
明日を感じて今日を生きる
自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方
魂の記憶を蘇らせる
魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだった事を想い出す
全ては我が魂の計画
生きているうれしさをやさしく感じる
自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す
人生の全ては輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす
魂の夢、光り輝く魂
おわりに
おわりに
この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
それに伴い、私達人類の世界観そのものが、大きく変わろうとしています。
有史以来数千年の古い世界観そのものが、新しい世界観に入れ替わる時を迎えようとしているのです。
現実世界に対する捉え方そのものが、根本的に変わろうとしています。
自分と自分以外を分け、自と他を分けた思考形態の中で、自分の外に何か確固とした客観的な現実世界があるのだと捉えた認識そのものが、消えていこうとしています。
自分が映す現実世界は、全て心の内だと分かり、自分と世界は分かれてはいないのだと知る事になるのです。
自分と空間は一つであり、全ては、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドである事を知る事になるのです。
自分の現実は全て、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものであり、全ては最善の目的の為に起きている事を知る事になります。
これにより、幸福・不幸という概念そのものが、消えていこうとしています。
肉体の自我意識(表面意識)の視点から、様々な出来事を幸・不幸、運・不運と捉えてきた認識そのものが、消えていこうとしているのです。
言わば、幸・不幸という概念すら超えた高みへと、私達人類の意識は、これから飛翔しようとしているのです。
自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂の想いを感じ、魂の願いに意識を合わせられるようになると、幸福・不幸という概念そのものが消えていく事になるのです。
永遠不滅の存在であり、天上界へと無限に続く意識の旅をしている我が魂の願いは唯一点、光り輝く魂になる事なのです。
魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、我が魂は、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているのです。
自分が映す現実世界は全て心の内だと分かり、豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくるのを体験する時、光り輝く魂になる事を求めて、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出す事になるのです。
西暦二〇一四年(平成二六年)三月吉日
大和富士
結果は有るけど、結果は無し
私達は、自分の人生の夢や目標に向かって進んでいますので、ある結果と呼ばれるものを求めて生きている人が多いのではないかと思います。
しかし、結果と呼ばれるものは、確かに、有ると言えば有るのですが、無いと言えば無いのです。
結果と呼ばれるものも、本当は、有るという訳でもないのです。
結果は有るけど、結果は無しなのです。
オリンピック競技というものも、結果を追い求める典型例の一つだと言えます。
先日行われたソチオリンピックでも、悲喜こもごもの様々なドラマがありました。
女子フィギュアスケートの浅田真央選手や、女子モーグルの上村愛子選手などは、メダルの有力候補と言われながら、結果的にはメダルに手が届かず、それぞれ6位入賞と4位入賞に終わりました。
金メダルを目指し、4年間死に物狂いで練習してきた当人にとって、順位という結果だけ見れば、悲願のメダルを逃し、悔しい思いもあるかと思いますが、4年間の集大成の最高の演技・滑りが最後に出来たという点では、浅田選手も上村選手も、満足されている御様子で、清々しい表情が感じられました。
もし、ライバル選手達の相次ぐミスなどによって、結果的に自分にメダルが獲れたとしても、自分自身が最高の演技・滑りが出来なかったとしたら、心の何処かで物足りない何かが残ったかも知れません。
金メダルという結果を求めて4年間必死に生きて来て、順位という結果だけ見れば、満足出来なくても、結果ではない何かで満足出来るという事もあるのです。
浅田真央選手の場合などは、前半のショートプログラムでミスが続き、予想外の低い得点で16位に沈み、失敗演技と思えたショートプログラムの結果というものが、逆に、心が開き直るきっかけとなり、フリーで最高の演技を実現させる元になったとも言えるかも知れません。
自己最高得点を獲得し、浅田真央選手ご本人曰く、「競技人生最高の滑りが出来た」との事で、世界中の多くの人々に、感動を与える事になりました。
何が結果なのか、よく分かりません。
結果と呼ばれるものも、長い年月が経ってみなければ、あるいは、もっと別の角度・視点から見てみなければ、よく分からないという事は、たくさんあります。
結果と呼ばれるものも、有ると言えば有るのですが、無いと言えば無いのです。
結果は有るけど、結果は無しなのです。
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、私達は、ただ、意識を創る旅をしているだけなのです。
天の仕組みとして、創った心は失われ、創った思いも必ず失われる仕組みになっていますから、「心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う」という、意識を創る旅を続けながら、心の純化、意識の福化の旅をしているだけなのです。
如何なる結果と呼ばれるものを創造したとしても、心の純化、意識の福化の旅のプロセスにおける絵柄・紋様にしか過ぎず、心を成長させる為の道具(ツール)にしか過ぎません。
先日書いたように、「本当の夢とは、心の夢ではなく、魂の夢の事」なので、心の夢を追い求めて心を成長させながら、実は、真我である魂の夢を実現させているのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、思い通りでないように思えたとしても、自分の人生の主体者・創造者である魂から見れば、全ては思い通りであり、我が魂の夢は実現しているのであり、人生の全てはうまくいっているのです。
人生の全ては、うまくいっています。
心の広がりとして、うまくいっています。
意識の福化として、うまくいっているのです。
うまくいっている事も、うまくいっていない事も、実は、全てはうまくいっているのです。
思い通りの事も、思い通りでない事も、実は、全ては思い通りなのです。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
自分の人生の全ての現実は、真我である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって最善の出来事の連続でしかありません。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化という事であり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていく事なのです。
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、何を成したかとか、何を手に入れたかという事柄の中に、人生の真の答えが有る訳ではありません。
何を成したかではなく、どれだけの意識を創れたかが大切なのであり、そここそが、天から問われているところなのです。
心の夢を求めて、結果と呼ばれるものを追い求めていく事自体は、心を成長させていく旅のプロセスには必要な事なのですが、結果と呼ばれるものの中に真の答えが有る訳ではなく、どれだけの意識を創れたかという事が大切なのです。
真我である魂から見れば、自分の人生の全ては思い通りであり、魂の夢は100%叶っているのであり、人生の全てはうまくいっているので、結果と呼ばれるものも、本当は、有るという訳でもないのです。
結果と呼ばれるものは、有ると言えば有るのですが、無いと言えば無いのです。
結果は有るけど、結果は無しなのです。
存在が感謝と知る
自分が映す現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、全ては心の内の景色、言わば、インナーワールドです。
そこに存在しているかに見える、全ての人、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして、存在してくれているだけなのです。
肉体の自我意識がとらわれている、自分という「我」を開放し、宇宙へと帰るプログラムとして、存在してくれているだけなのです。
ですから、自分が映す現実世界に存在する全ての人、事、ものに感謝する事で、心の位置が変わります。
お世話になったから、あるいは、自分に対して好意的に接してくれたから感謝の思いを強めるのではなく、相手が存在してくれている事そのものに感謝する事で、心の位置が変わるのです。
もし、自分に対して、冷たく接してくる人がいるとしたら、その人が存在してくれている事に対して感謝する事で、心の位置が変わります。
自分が映す現実世界に存在しているかに見える、全ての人、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在してくれているだけなので、存在が感謝と知る事で、心の位置が変わるのです。
相手の行為に対して感謝の思いを強めるのではなく、相手の存在そのものが感謝と知る事で、心は飛翔します。
自分が映す現実世界に存在する、全ての人、事、ものに対して、存在が感謝と知る事で、心はさらに飛翔します。
人生の全ては、うまくいっている
人生の全ては、うまくいっています。
自分の人生の全てが、うまくいっています。
例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、うまくいっていない、思い通りでないように感じられたとしても、実は、全てがうまく流れているのです。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
自分の人生の全ては、真我である魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、真我である魂の視点から見れば、実は、全てはうまくいっています。
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、自分の人生に起きる全ての現実は、魂の進化にとって最善の出来事なのであり、最善の出来事の連続でしかありません。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、不幸・不運としか感じられないような出来事であったとしても、自分の人生の主体者・創造者である我が魂から見れば、魂の進化にとって最善の出来事なのです。
肉体の自我意識(表面意識)がとらわれている、不幸・不運という思いを外して、その事を受け入れ、認めていく事が、心の純化であり、意識の福化と呼べるものなのです。
人生の全ては、うまくいっています。
心の広がりとして、うまくいっています。
意識の福化として、うまくいっています。
自分の人生の主体者・創造者である我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものなので、全ては最善の出来事の連続なのです。
真我である魂は、全ての出来事、全ての現実を使って、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいます。
自分の人生の全ては、うまくいっています。
本源の我であり、真我である、我が魂から見れば、魂の進化の為に、この世界を完璧に通過中なのであり、実は、全てはうまくいっているのです。
本当の夢とは、心の夢ではなく、魂の夢の事
人は皆、心に様々な夢を描いて生きているのだと思います。
ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、という具合に、人により、様々な夢があるのだと思います。
多くの人が抱く夢というものを、一般的な言葉で表現するとしたら、健康・長寿、お金・富、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の家庭、理想の仕事、豊かな人間関係、社会的成功、地位・名誉・・・というような事になるのかも知れません。
そして、それらの事柄を夢として抱く事自体は、心を成長させていく旅のプロセスには必要な事であり、OKなのですが、心の夢というものは、本当の夢ではなく、魂の夢こそが、本当の夢であるという事を想い出す事が大切になります。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
真我である魂が、心と肉体を使って、魂の進化と呼ばれる、意識の旅をしています。
魂の目的は、唯一点、魂の進化という事であり、光り輝く魂になるという事なのです。
魂は、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になる事を求めて、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しています。
魂の進化とは、心の純化、意識の福化という事であり、心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心へと、心を飛翔させていく事なのです。
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、真我である魂が、心と肉体を使って、魂を進化させる旅をしています。
心が抱く夢というものは、魂の進化と呼ばれる、魂の夢を実現させる為に、真我である魂が描かせているものなのです。
本当の夢とは、心の夢ではなく、魂の夢の事なのです。
心が描く夢はもちろん大切なのですが、その奥には、本源の我であり、真我である、我が魂の夢がある事を忘れない事が大切になります。
本源の我であり、真我である、我が魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になる事を求めて、心と肉体を使いながら、意識を創る旅をしているのです。
本当の夢とは、心の夢にあらず、魂の夢の事なのです。
キリスト意識の目覚めーキリストや仏陀とは、私達一人一人の事でもある
イエス・キリストや仏陀は、私達人類の偉大なメッセンジャーの一人です。
イエス・キリストも仏陀も、地球神界とでも呼ぶべき天界から、ある使命と役割を与えられて地上へと遣わされた、偉大なメッセンジャーの一人なのです。
しかし、キリストや仏陀という言葉自体は、固有名詞ではなく称号なので、キリストや仏陀という言葉は、ある特定の一人物だけを指す言葉ではありません。
ですから、キリストや仏陀という言葉は、二千数百年前に存在したとされる、歴史上のある特定の人物だけを意味する言葉ではありません。
仏陀という言葉なども、覚者とか、悟りを開いた人などを意味する称号なので、そういう意味においては、覚者と呼ばれるような人達は、一人一人が仏陀であるとも言えます。
仏陀やキリストという言葉は、固有名詞ではなく、あくまでも称号なので、そういう意味においては、私達一人一人が、本質において、本来、仏陀であり、キリストであるとも言えます。
キリストや仏陀とは、二千数百年前に活躍したとされる、歴史上の偉大なメッセンジャーだけを指す言葉ではなく、私達一人一人の事でもあるのです。
私達一人一人が、仏陀であり、キリストであるとも言えます。
神道的に言えば神性、仏教的に言えば仏性、キリスト教的に言うならばキリスト意識とでも言うべき、私達一人一人の中にある本当の光、神聖な光を想い出し、蘇らせ、それを顕現して神人のように生きる時、人は皆、仏陀であり、キリストであるとも言えます。
神の本質である神性、「愛(女性原理)と力(男性原理)」を想い出し、蘇らせ、それを顕現して生きる時、私達一人一人が、仏陀となり、キリストとなるのです。
キリストや仏陀とは、私達一人一人の事でもあるのです。
地上に生きる70億人の人間全てが、本質において、本来、キリストであり、仏陀なのです。
その事に目覚めていく時を迎えています。
言わば、キリスト意識の目覚めの時を迎えているのです。
今、私達人類の意識が飛躍的に進化し、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する時を迎えています。
私達人類の意識が飛躍的に進化するのに伴い、既存の宗教の多くは、その存在意義を失い、いずれ役割を終えていく事になるでしょう。
最早、既存の宗教に頼らなくても、私達一人一人が、精神的に自立した生き方が出来るようになるからです。
有史以来数千年の人類は、自分の外に神や仏を見て、神や仏に縋(すが)り、神や仏に精神的に依存し、神や仏に救いを求めてきました。
自分自身の力では歩けないので、言わば、宗教という松葉杖が必要な時代であったとも言えます。
私達人類が、宗教という松葉杖が無くても精神的に自立して生きられる時代を迎えるまで、私達人類を導くメッセンジャーとして、天界から遣わされたのが、イエス・キリストであり、仏陀だったのです。
ですから、自分の外にキリストや仏陀を見て、キリストや仏陀に縋(すが)り、キリストや仏陀に依存し、キリストや仏陀に救いを求める時代は、間もなく終わりの時を迎えようとしています。
自分の外にキリストや仏陀を見るのではなく、自分自身の中にある、キリスト意識、仏性、神道的に言えば神性に目覚めて、それを蘇らせ、顕現して、自分自身が、神人のようになって、精神的に自立した生き方をしていく時代を迎えようとしているのです。
自分の外に神や仏を見る時代は、もう終わりの時を迎えようとしています。
これからは、自分の外にではなく、自分自身の中に、神や仏を発見し、それを蘇らせ、顕現して、自分自身が、キリストとなり、仏陀となる時代を迎えようとしているのです。
私達一人一人が、キリストであり、仏陀なのです。
私達人類のキリスト意識の目覚めにより、新たな地球が誕生する時を迎える事になります。
西暦2030年代の何れかの時期に、今ある物質文明の次に来る、新たな精神文明、花咲く都・黄金文明が、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から花開く時を迎えます。
その時、外の世界においても、イエス・キリストの復活・再臨を目の当たりにする時を迎えるでしょう。
神の経綸において、神の復活は、イエス・キリストの復活として、型で出されています。
イエス・キリストは、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本において、復活するのです。
イエス・キリストが再臨して人類を救うのではなく、私達人類が内なるキリスト意識に目覚め、私達人類が自ら私達自身を救って、新たな地球を誕生させた時、外の世界においても、神の復活の型示しとして、イエス・キリストは復活・再臨する事になるのです。
二千年前に、イエス・キリストを地上へと遣わされた、「天にまします父」により、イエス・キリストは、再び地上へと遣わされ、私達人類の前に姿を現す事になるのです。
イエス・キリストの復活には、内的な復活と、外的な復活の二つの意味があり、内的な復活がまず先になります。
そして、外的な復活は、型示しなので、後からになります。
私達人類が、内なるキリスト意識に目覚め、内なるキリストを復活させ、新たな地球の誕生を迎えた時、外の世界においても、神の復活の型示しとして、イエス・キリストの復活・再臨を見る時を迎えるのです。
イエス・キリストの復活については、「イエス・キリストの復活とはー内的な復活と外的な復活」をご参照下さい。
イエス・キリストが、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本において復活・再臨した時、天界(地球神界)と私達人類との新たな友好関係・協力関係が始まり、私達人類は、宇宙時代を迎える事になります。
キリスト教の世界で言われる、「至福千年王国」の事であり、私達人類の黄金時代の幕開けの時でもあります。
真の世界平和、地球の恒久平和の始まりの時でもあります。
私達人類の黄金時代は、まず、私達日本人のキリスト意識の目覚めにより齎(もたら)される事になるのです。
自分の外にキリストや仏陀を見て、キリストや仏陀に縋(すが)り、依存し、キリストや仏陀に救いを求める時代は、もう終わろうとしています。
自分自身の中にあるキリスト意識、仏性、神性に目覚め、それを蘇らせ、顕現して、私達一人一人が、キリストとなり、仏陀となる時代を迎えようとしているのです。
キリストや仏陀とは、二千数百年前に存在したとされる、私達人類の偉大なメッセンジャーを指す言葉であるだけではなく、自分自身の事でもあるのです。
私達一人一人が、キリストであり、仏陀なのです。
全ては我が魂の計画の中
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我、真我である、我が魂です。
ですから、自分の人生の全ては、我が魂の計画の中にあります。
我が魂の計画の中に無いものは何一つ無く、全てが我が魂の計画の中なのです。
そして、我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つなので、我が魂の計画とは、即ち、大宇宙の計画の一部でもあるのです。
自分という者は、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとしての役割でしか、存在していませんので、その役割の外へは、一歩も出る事は出来ないのです。
自分の人生の全ては、我が魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中なのです。
ここは「追想の中」での「追体験」
「デジャヴュ(既視感)」という言葉があります。
初めて来た場所なのに、何となく懐かしい感じがして、初めて来た感じがしない、とか、初めて会った人なのに、以前どこかで会った事があるような感じがして、初めて会った感じがしない、というような体験をする事があります。
よく使われるのは、この場所は過去世で来た事がある場所だとか、この人とは、前世で一緒だった人だとかいうような感じで、使われたりしています。
しかし、「デジャヴュ(既視感)」というのは、本当は、もっともっと奥が深く、意味深いものなのです。
何故なら、今、私達は、「追想の中」を生きており、かつて体験した事を、今、「追体験」しているからなのです。
究極的には時間は存在しておらず、過去も未来も、今、同時に存在していますので、二一世紀の地球という、この座標軸は、必ずしも、今初めて大宇宙に存在しているという訳でもないのです。
二一世紀の地球という、この時空が、今初めて大宇宙に存在していると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えます。
二一世紀の地球という、今ここにある時空は、実は、かつて存在した時空でもあるのです。
私達は、かつて存在した時空で体験した事を、今再び「追体験」しているのであり、今、「追想の中」を生きているのです。
かつての記憶を、今再び蘇らせているとも言えます。
空間という、三六〇度立体のバーチャルなスクリーン上で、再生されたビデオを見ているようなものかも知れません。
ですから、実は、過去世うんぬんという事に留まらず、過去には無かった現代のものや、あらゆる事に対して、「デジャヴュ(既視感)」を覚えたとしても、決して不思議な事ではありません。
魂の記憶が蘇ってくると、様々な事に「デジャヴュ(既視感)」を覚えるかも知れません。
それは単に、人や場所に対してだけではなく、自分が体験した一つ一つの出来事や、自分が味わった感情の一つ一つに対しても、かつて味わった事があるという懐かしさを覚えるかも知れません。
魂の記憶が蘇ってくると、未来の記憶とでも呼ぶべきものも、少しずつ蘇ってきます。
我が魂は、未来で体験する全て、未来で味わう感情の全てを、既に知っているのです。
何故なら、大宇宙意識の分霊として、自分の人生の全てを「想像=創造(そうぞう」したというだけではなく、さらに言うならば、この時空はかつて存在した時空であり、その時既に体験をしているからなのです。
本源の我、真我である我が魂は、自分がこれから人生で体験する全てを、既に知り尽くしているのです。
魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、未来の記憶が少しずつ蘇ってくるかも知れません。
私達は、かつて体験した事を、今、「追体験」しているのであり、「追想の中」を生きているのです。
二一世紀の地球という、今ここにある座標軸は、実は、かつて存在した懐かしき時空であり、ここは「追想の中」にある、「緑美しき懐かしき地球」なのです。
自分の人生の主体者・創造者は、本源の我であり、真我である、我が魂
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂です。
自分の人生の創造主は、他ならぬ、本当の自分自身なのです。
我が魂というのは、大宇宙の根本主体である大宇宙意識の分霊であり、永遠不滅の存在です。
永遠不滅の存在である我が魂が、魂の更なる輝きを求めて、光り輝く魂になる事を求めて、魂の進化の為に、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しています。
自分の現実の全ては、魂の進化の為に、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなので、魂の進化にとって最善の出来事の連続なのであり、我が魂は、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいます。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
自分の現実が、つらく苦しく感じられ、自分があたかも、被害者であるかのように感じたりしてしまうのは、肉体の自我意識(表面意識)では、真我である魂の意図が分からず、自分の現実の全ては、本当の自分自身が「想像=創造(そうぞう)」しているのだという事が分からないからなのです。
真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事には、差(ギャップ)がありますので、差(ギャップ)を取っていく事が、意識の拡張であり、心の成長と呼べるものなのです。
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、私達は、魂の進化と呼ばれる、心の純化、意識の福化の旅をしているだけなのです。
魂の記憶を蘇らせる事が出来れば、自分の現実の全ては、大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したのだという事を、想い出す事が出来ます。
「想いは実現する」、「思考は現実化する」とは
「想いは実現する」とか、「思考は現実化する」という言葉を、よく耳にします。
その言葉自体は、決して間違いではないのですが、その本質的な意味がほとんど理解されないまま、安易に使われている感じがします。
「想いは実現する」というのは、この大宇宙を成り立たせている、最も基本的な原理です。
絶対世界に唯一実在している、大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージが、そのまま100%「創造(そうぞう)」されているのが、相対世界である物理的大宇宙です。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識の「想い」が、100%「実現」した世界が、相対世界である、物理的大宇宙なのです。
そして、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂が「想像(そうぞう)」したイメージが、そのまま100%「創造(そうぞう)」されているのが、自分が映す現実世界なのです。
我が魂の「想い」が100%「実現」した世界が、自分自身の現実なのです。
このように、大宇宙の根本主体である大宇宙意識、そして、大宇宙意識の分霊である我が魂においては、「想いは実現する」、「思考は現実化する」というのは、100%その通りです。
しかし、肉体の自我意識(表面意識)のレベルにおいては、必ずしも「想いは実現する」訳でもなく、「思考は現実化する」訳でもありません。
もしそれが、我が魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中にあった時だけ、その「想いは実現する」のです。
逆に、もしそれが、我が魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中に無ければ、例えどんなに強く願ったところで、その「想い」は決して「実現」する事はありません。
真我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事には、差(ギャップ)がありますので、表面意識で様々な「想い」や「思考」を巡らせてみたところで、それが魂の計画の中に無ければ、決して「実現」する事はないのです。
アメリカの成功哲学に登場するような、様々な偉業を成し遂げた、所謂、成功者と呼ばれる人達は、その「想い」が、彼らの魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中にあったからこそ、それを「実現」させる事が出来たのです。
彼らは、その「想い」が魂の計画の中にあったからこそ、何年、何十年にも亘って、それ以外の心になる事なく、一つの「想い」を抱き続け、艱難辛苦を乗り越え、万難を排して、偉業を成し遂げる事が出来たのです。
魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中に無ければ、例えどんなに強く望もうが、どんなに努力しようが、その「想いは実現する」事はありません。
オリンピックを目指すトップアスリート達が、どんなに強く願い、どんなに血の滲むような努力を重ねたところで、誰もがオリンピックの金メダリストになれるという訳でもなく、宝くじを買った人達が全員1等に当選出来るという訳でもないように、ただ単に、想えば叶う、とか、努力すれば夢は必ず「実現」する、願いは必ず叶う、というような、単純なものではないのです。
魂の「想い」、即ち、大宇宙意識の「想い」と、肉体の自我意識(表面意識)の「想い」には、差(ギャップ)がありますので、表面意識での「想い」は、必ずしも「実現」するという訳ではなく、「思考は現実化する」という訳でもないのです。
逆に、もしそれが、魂の計画の中、即ち、大宇宙の計画の中にあるならば、表面意識で特に「想い」を持たなくても、状況が整えられて、物事は自ずと成就する事になります。
全ては大宇宙の計画の中にあり、我が魂というのは、大宇宙意識の分霊として、大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとしての役割でしか存在していませんので、役割の中に無いものは決して「実現」しませんし、逆に言えば、役割の中にあるものは、必ず「実現」する事になります。
「想いは実現する」、「思考は現実化する」というのは、大宇宙の根本主体である大宇宙意識、そして、その分霊である魂のレベルにおいてのみ、当てはまる言葉であり、決して、肉体の自我意識(表面意識)のレベルにおいて当てはまる言葉ではないのです。
未来は100%確定している、という事について
自分の未来は、決まっているのでしょうか?
そして、人類の未来、地球という星の未来は決まっているのでしょうか?
さらには、大宇宙の未来は決まっているのでしょうか?
未来というものは、既に確定しているものなのか、それとも、未来は完全に白紙なのでしょうか?
心の奥深くで、常に知りたかった事だと思います。
結論から先に申しますと、未来は既に決まっており、未来は100%確定しています。
未来は100%確定していますので、白紙の未来がある訳ではありません。
未来が100%確定している事は、知識や学問などによっては知る由もなく、体験的に知る他ないので、ある種の「神我一如」、あるいは「梵我一如」とでも言うべき体験が必要になります。
この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、未来が100%確定しているという事を、決して理解出来ないと思います。
この大宇宙の本質というものを、体験的に知る事が出来ると、時間は幻想である事、そして、この大宇宙には、根本創造主(大宇宙意識)という唯一の存在しか実在していない事を知る事になり、未来が100%確定しているという事を、何の疑いもなく確信する事が出来るようになります。
時間は幻想であり、本当は、時間は存在していません。
時間というものは、究極的には存在しておらず、「時」には、始まりも無ければ、終わりもありません。
ただ、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「今」という名の「永遠(えいえん)の時」があるだけなのです。
時間は流れている訳ではなく、過去も未来も、今、同時に存在しています。
大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在しているのです。
大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在しているのです。
時間は流れている訳ではないのですが、敢えて、時間の流れというものを想定するとすれば、それは、多くの人達が考える、過去→現在→未来という流れではなく、それとは逆の、未来→現在→過去という流れになります。
未来は確定的に存在していますので、既に確定している未来から時間がやって来て、必要となるプロセスが順番に創り出されているのです。
原因があって結果があるというより、ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが創り出されているのです。
原因があって結果があるというより、原因は、結果によって選ばれていると言った方が真実に近いのです。
大宇宙の過去・現在・未来の全てが、今、同時に存在しており、大宇宙の全ての時空が、今、同時に存在しています。
ですから、二一世紀の地球という、今ここにある時空は、必ずしも、今初めて大宇宙に存在しているという訳でもないのです。
二一世紀の地球という、今ここにある時空が、今初めて大宇宙に存在していると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えます。
二一世紀の地球という、この時空は、実は、かつて存在した時空でもあるのです。
私達は、かつて存在した時空で体験した事を、今、「追体験」しているのであり、「追想の中」を生きているのです。
ここは、「緑美しき懐かしき地球(追想の中)」なのです。
そして、この大宇宙には、本当は、根本創造主(大宇宙意識)という、たった一つの存在しか実在していません。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識とは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」を持った「純粋意識」の事なのです。
「時」には、始まりも無ければ終わりもありませんので、大宇宙の根本主体である大宇宙意識は、誕生するという事もなく、消滅するという事もなく、「永遠(えいえん)の今」に実在しています。
物理的大宇宙の全ては、根本主体である大宇宙意識が「想像=創造(そうぞう)」したものであり、「全ては根本創造主(大宇宙意識)の顕れ」なのです。
大宇宙の森羅万象の全ては、根本主体である大宇宙意識によって営まれていますので、全ては大宇宙の調べの中、全ては大宇宙の計画の中なのです。
私達は、大宇宙に生かされている存在であり、自分の力だけでは、一呼吸すら出来ない存在なので、自分が努力すれば未来を変えられると考えるのは、自分の力で生きているという、勘違い・錯覚にしか過ぎません。
私達一人一人を始め、万物を生かしている根源的エネルギーは一つなので、大宇宙の森羅万象の全ては、根本主体である大宇宙意識によって営まれているのです。
この大宇宙には、根本主体である根本創造主(大宇宙意識)しか実在していない事、そして、時間は幻想である事を体験的に知る事が出来れば、未来は100%確定しているという事を、確信する事が出来ます。
逆に言えば、この大宇宙の本質というものを、体験的に知らない限りは、未来が100%確定しているという事を、決して理解する事は出来ません。
しかし、私達一人一人は、大宇宙の根本創造主(大宇宙意識)の分霊(わけみたま)なので、私達の意識を一番奥深くまで遡れば、最終的には、根本主体である大宇宙意識まで辿り着く事になります。
ですから、私達一人一人は、意識の一番深い部分においては、死に至るまでの自分の人生の全てを知り尽くしているだけではなく、この大宇宙の全てを知っているとも言えるのです。
その事を想い出していく手助けとして、誰にでも分かりやすい形で、何故、未来が100%確定しているのかを詳しくまとめた本を書いて、いずれ出版したいと考えています。
「因果律」は一面の真理でしかない
「因果律」というものが、この大宇宙を貫く絶対法則であるかのように、勘違いされている傾向があります。
しかし、「因果律」というのは、単に一面の真理でしかなく、大宇宙を貫く絶対法則などではありません。
「因果律」が存在すると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているという思い込みによるものだと言えるかも知れません。
確かに、時間というものが、過去→現在→未来へと流れているものだと考えるならば、過去があって現在があり、原因があって結果があるというふうに感じられるかも知れません。
そのような観点に立った時のみ、「因果律」は存在し得るのであり、それはあくまでも、一面の真理にしか過ぎません。
実際には、時間というものは流れている訳ではなく、過去も未来も今同時に存在しているのであり、敢えて時間の流れというものを想定した場合でも、それは、未来→現在→過去という流れになります。
時間というものが、未来→現在→過去へと流れているという観点に立てば、原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれていると言った方が真実に近いので、「因果律」は成り立たなくなります。
さらに言うならば、実際には時間は流れている訳ではなく、過去も未来も今同時に存在しており、「永遠(とわ)の中今」とでも呼ぶべき、「永遠(えいえん)」の「今」があるだけなので、そういう観点に立つならば、究極の因果関係は、この大宇宙には存在しない、という事にもなります。
「因果律」というのは、あくまでも一面の真理にしか過ぎず、この大宇宙を貫く絶対法則などでは、決してありません。
原因は結果により選ばれている
多くの人達は、原因があって結果がある、と考えているようです。
しかし、本当は、原因があって結果があるというより、原因は結果により選ばれているのです。
原因があって結果があると考えるのは、時間というものが、過去→現在→未来というふうに流れているという思い込みによるものだと言えるかも知れません。
実際には、時間は流れている訳ではなく、過去も未来も今同時に存在しており、敢えて時間の流れというものを想定した場合でも、それは、未来→現在→過去という流れになります。
私達が家を建てる場合でも、結果である未来の完成形(設計図)というものがまず存在し、その結果を得る為に必要な原因(基礎工事、柱や屋根の組立、外装、内装、配線等)を、順番に選んでいる筈です。
ある結果と呼ばれるものを得る為に、その原因となるものが創り出されている訳です。
全ては大宇宙の計画の中にあり、未来は既に確定的に存在していますので、未来から時間が流れて来て、未来の結果を得る為に必要な原因が、順番に創り出されているだけなのです。
原因があって結果があるというのは、あくまでも一面的な見方でしかなく、むしろ、原因は結果により選ばれていると言った方が、真実に近いのだと言えます。
幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る
この現象界(物理的大宇宙)は、幻の世界です。
絶対世界に唯一実在する大宇宙意識が「想像(そうぞう)」したイメージが、光により物質化されて「創造(そうぞう)」された、バーチャルリアリティー(仮想現実)のような幻なのです。
そこに存在しているかに見える全てのものは、仮相(仮の姿)であり、本当は何も確かな実体がある訳ではありません。
唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識の「無限」の「想像力=創造力(そうぞうりょく)」が、光により様々な紋様となって織り成されているだけなのです。
全ては、大宇宙の根本創造主である大宇宙意識の中で繰り広げられている壮大なゲームであり、全ては「神の戯れ(リーラ)」と呼べるものなのです。
そして、本源の我、真我である我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つとして、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を映し出して見ているモニターの中の一つであり、大宇宙に無数に存在するテレビカメラの中の一つであるとも言えます。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとして、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を映し出し、体験し、味わっているのです。
自分が映す現実世界が、いかに確固としたリアルなもののように感じられたとしても、全ては幻なのであり、一切が無の世界なのです。
そして、この世界が全て幻であることが分かれば分かる程、現実世界はますます輝きを増して感じられてきます。
この世界が全て幻であることが分かれば分かる程、現実世界はますます鮮やかに、美しく感じられ、ありがたく、そして、面白く感じられてくるのです。
この世界は、大宇宙の唯一の実在である大宇宙意識の光によって創られた魔法の世界であり、私達は、魔法の国の中に生かされ、生きているのです。
この世界が幻だから美しくない、ありがたくない、面白くない、生きる価値がないという事ではなく、この世界が幻の世だからこそ、この世界は本当に、美しく、ありがたく、面白く、生きて味わう価値があるのです。
この世界が全て幻であるが故に、生きる喜び、生きる楽しみ、生命のかけがえのなさ、生命の美しさ、生命の輝きがより一層感じられてくるのです。
この世界は幻です。
そして、幻であるが故に、大事に生きようとします。
幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見るのです。
状況というものは無い
状況というものは、ありません。
本質的には、状況というものがある訳ではなく、状況と捉えた認識があるだけなのです。
状況というものがある訳ではないので、状況と捉えたものは、あくまでも、ある視点から捉えた認識にしか過ぎないのです。
ですから、世界は今こうなっている、とか、世界経済は今こうなっている、というような、状況分析の類は、あくまでも、ある視点から捉えた認識でしかないので、本質において、何も分かっていないとも言えます。
状況というものが、本来ある訳ではなく、状況と捉えた認識があるだけなのだという事を、常に忘れない事が大切だと思います。
進化論は誤り
今はどうか知りませんが、以前は学校で、ダーウィンらが唱えた進化論というものを教えられ、それがあたかも真実であるかのように思われていましたが、進化論には矛盾があり、行き詰まりがあるようです。
それもその筈、進化論は誤りだからです。
人間は初めから人間であり、サルから進化した訳ではありません。
進化論が誤りである事は、簡単な事実から、すぐ分かる事なのです。
もし、サルが進化して人間が誕生したのであれば、今も、サルから人間に進化しつつある個体が、たくさんいる筈なのです。
サルと人間、というふうに、明確に分かれるのではなく、まだほとんどサルに近い個体や、かなり人間に近い個体など、グラデーションのように、サルから人間までの、様々な段階のサルが多数存在していなければならない筈です。
しかし、実際には、今、地球上には約七〇億人の人間と、正確な数は分かりませんが、多数のサルがいるだけなのです。
コンピューターを自在に操り、超高層ビルを建て、飛行機や潜水艦を操り、宇宙ロケットまで飛ばせるような知性を備えた、約七〇億人の人間達と、人間から芸を仕込まれて猿真似芸がなんとか出来る程度の知性しか持たない、多数のサルがいるだけであり、その中間の生物は存在していません。
旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された」と書かれているとおり、私達人間は、初めから人間として創造されたのであり、決して、サルから進化した訳ではないという事を、肝に銘じておく必要があるかも知れません。
神についての二つの概念
神という言葉が使われる時、二つの概念が混同して使われています。
一つは、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である、大宇宙の根本創造主に対して使われています。
また、もう一方では、神話に登場するような、「神々の世界」、「神界」と呼ばれるような世界、地球の生命を創造した世界に対しても使われています。
しかし、これら二つの世界は、別のものなので、分けて考える必要があります。
私が大宇宙意識と呼んでいる、唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である根本創造主とは、絶対世界における唯一の実在であり、それは、完全なる純粋意識として実在していますので、絶対世界には、様々な神々や仏達などがいる訳ではありませんし、「神界」など存在しません。
神話に登場するような様々な「神々の世界」、「神界」と呼ばれるような世界、様々な仏達の世界というものは、あくまでも、相対世界に属するものであり、地球の生命を創造した存在達も、相対世界の存在なのです。
旧約聖書の「創世記」に、「神は御自分にかたどって人を創造された。」と書かれているとおり、地球の生命を創造した存在達と私達人間は似ており、私達人間と同じように、姿形や名前を持った存在なのです。
物理的大宇宙の全ては、根本主体である大宇宙意識により「想像=創造」されていますので、マクロに見れば、地球の全生命も、大宇宙意識により創造されているのですが、大宇宙意識が直接、地球の全生命を創造した訳ではなく、直接地球の全生命を創造したのは、私達人間と同じように、姿形や名前を持った、神話に登場するような「神々」であり、「神界」と呼ばれるような世界の存在なのです。
無形の超自然の神が地球の全生命を創造したのではなく、地球の全生命を直接創造したのは、私達人間と同じような姿形や名前を持った存在達であり、あくまでも、相対世界に属するものなのです。
絶対世界に唯一実在する大宇宙意識というのは、私達人間が、神や仏という言葉からイメージするような概念を遥かに超えた、もっとスーパーな存在です。
唯一にして絶対、至高の存在であり、全知全能の存在である大宇宙意識にとっては、この物理的大宇宙の全てを破壊して、また新たな大宇宙を創造する事など自由自在ですし、全ては「神の戯れ(リーラ)」でしかないので、地球の未来を心配したり、私達個人の願い事を聞き入れてくれたりするような存在では、全くありません。
私達人間に対して、メッセージや警告を発信してくる「神々」というのは、もちろん、相対世界の存在です。
相対世界と一口に言っても、様々な次元が重なっており、私達人間が持つ情報指数を遥かに超えた高次元意識が存在しますが、あくまでも、相対世界の存在なのです。
このように、神についての二つの概念が、混同して使われていますので、分けて考える必要があります。
今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★今ここに存在している自分は、アバターにしか過ぎない
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今ここに、肉体という衣を纏(まと)って存在している自分は、言わば、アバターとしての自分であり、本当の自分自身ではありません。
本当の自分自身とは、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」なのです。
本当の自分自身である、我が魂という「意識」が「想像=創造(そうぞう)」した、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界を体験して味わう為に、肉体という衣を纏(まと)って存在しているアバターが、今生きている自分という存在なのです。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、アバターとしての自分でしかないので、本当の自分自身ではありません。
アバターとは、化身とか、分身というような意味で使われており、自分の分身となるキャラクターを意味する言葉です。
肉体を持った自分というのは、本当の自分自身ではなく、本源の我である、我が魂の分身として存在しているアバターにしか過ぎないのです。
肉体を持った自分というのは、あくまでも、アバターとしての存在にしか過ぎないので、アバターの中に、本当の自分自身がいる訳ではありません。
物質というものを「想像=創造(そうぞう)」している源は、「意識」であるということを、もう一度想い出してみて下さい。
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の中に、自分の「意識」がある訳ではなく、自分の「意識」の中に、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)があるのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがあり、その中の地球という星の中にある、日本という国に、肉体を持った自分が存在していて、その自分が「意識」を持っているのではありません。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、本源の我である、我が魂という「意識」の中にある世界なので、アバターである肉体の中に、「意識」である魂が存在している訳ではありません。
物質の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に物質が存在しているのです。
今ここに存在している自分というのは、アバターにしか過ぎません。
大宇宙意識の分霊であり、本源の我、真我である、我が魂という「意識」は、アバターである肉体の中には存在していません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
★大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)とは、自分の「意識」の中にある世界なのです。
従って、自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)というものがある訳ではありません。
多くの人達は、自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙が存在すると考えています。
自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙というものがあり、その中の地球という星に、肉体を持った自分が存在していて、その自分が「意識」を持っていると考えています。
そうではなく、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、自分自身の「意識」の中に存在している世界なのです。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)を創り出しているのは、実は、自分自身の「意識」というものなのです。
自分の「意識」の中に、自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)があるのであり、物理的大宇宙(現実世界)の中に、自分の「意識」がある訳ではありません。
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙があるのです。
とても奇想天外に聞こえるかも知れませんが、最先端の物理学では、この事が理解出来るようにもなってきているようです。
この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観に入れ替わる時を迎えていますので、いずれ多くの人達が、この事を理解出来るようになっていく筈です。
天動説が地動説に変わるような、コペルニクス的大転回を、私達人類は、これから経験する事になるのです。
自分の外に、何か確固とした客観的な物理的大宇宙(現実世界)があると捉えてきた認識そのものが、180度入れ替わる時を迎えます。
自分が見ている物理的大宇宙(現実世界)の全ては、自分の「意識」を投影した、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドである事を知る時を迎えるのです。
大宇宙の中に「意識」があるのではなく、「意識」の中に大宇宙がある、という認識に、私達人類が到達出来る時代を迎えようとしているのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
拙書『根本創造主(大宇宙意識)という唯一の実在』より
7月17日、新著「魂の夢、光り輝く魂」発売開始!
7月17日、新著「魂の夢、光り輝く魂」の発売を開始致しました!
電子書籍「魂の夢、光り輝く魂」
豊かなる心の位置で
豊かなる世界が現れてくる
四六版 244ページ
価 格 1200円+税
当ホームページよりPDFファイルにてダウンロード購読
詳細につきましては、「書籍」のページをご参照下さい!
7月17日発売、「魂の夢、光り輝く魂」の内容をご紹介致します!
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電子書籍「魂の夢、光り輝く魂」
豊かなる心の位置で
豊かなる世界が現れてくる
四六判 244ページ
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はじめに
生きるとは何か・・・。
古今東西を問わず、全ての人々にとっての根源的な問いである、生きるとは何を意味するのでしょうか。
生きるとは何かについて知る為には、まず、この大宇宙の本質について知る必要があります。
そして、大宇宙と自分自身との関係を知る必要があります。
そして、自分が映す現実世界とは何なのかについて知る必要があります。
この三つの要点をきちんと把握しない限りは、生きるという事の本質は捉えられないと思います。
この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
有史以来数千年の人類の古い世界観そのものが、新たな世界観へと入れ替わる時を迎えています。
本書において、新たな世界観に基づき、生きるとは何かについて、考察してみたいと思います。
大和富士
目 次
はじめに
大 宇 宙
絶対世界と相対世界
根本創造主という唯一の実在
全ては、神の顕れ
想像(そうぞう)=創造(そうぞう)
大宇宙=無限
永遠(とわ)の中今
永遠とは
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
「あり得ない」という事こそ「あり得ない」―あらゆる事があり得る
大宇宙の全ては、光の中
物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界
全ては、神の戯れ(リーラ)
根本創造主の孤独
絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
全ては、大宇宙(神)の弥栄
大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
全ては、大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然なし
未来からやって来る時間
未来は、確定的に存在している
大宇宙は、多重多次元構造
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
新しい世界観
大宇宙意識と本源の我
意識の中に大宇宙がある
一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
現実世界とは
自分一人の世界
全てが主観の世界
自分が変われば世界が変わる
心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
魂の進化
魂の願い
心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
魂の進化の場として与えられた運動場
魂の夢
今を良しとする力、全てを完として捉える力
どれだけの意識を創れたかが大切
自分を解放するプログラム
自分の唯一のプログラム
本当は誰もいないーただ大宇宙がある
魂の進化としての道の最短距離
全て幻、全て問題なし
思い通りでないところが、全て思い通りだと気付く
困る出来事あらず
人のせい、社会のせいなど存在しない
後悔するという思考を消滅へと向かわせる
映る世に心を傾けない
幸福なるもの形にあらず
幸・不幸という概念を超える
プラス思考を超える
受ける難、全て福
人生の悩み・苦しみの根底にあるもの 1
人生の悩み・苦しみの根底にあるもの 2
幻の世と知って生きる事に、生命の輝きを見る
人は常に、自分が最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる
現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
宇宙はメッセージだらけ
真のワンネスとは
真(まこと)のみを映す鏡
全ては愛のメッセージ
生きるとは、創造する事
全てを喜びに変える創造
この世界は自分次第
空間を最高の友として遊ぶ
豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくる
あらゆる否定を無くする
この世にあるもの全てが御魂の肥やし
肉体という衣について
自分の両親を自ら選んで生まれて来ている
多次元に生きる、本源の我
魂を自分の肉体の外に想像
今ここに生きる事が、常なるテーマ
ここは「追想の中」
明日を感じて今日を生きる
自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方
魂の記憶を蘇らせる
魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定通りだった事を想い出す
全ては我が魂の計画
生きているうれしさをやさしく感じる
自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す
人生の全ては輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす
魂の夢、光り輝く魂
おわりに
おわりに
この二一世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球が誕生する事になります。
それに伴い、私達人類の世界観そのものが、大きく変わろうとしています。
有史以来数千年の古い世界観そのものが、新しい世界観に入れ替わる時を迎えようとしているのです。
現実世界に対する捉え方そのものが、根本的に変わろうとしています。
自分と自分以外を分け、自と他を分けた思考形態の中で、自分の外に何か確固とした客観的な現実世界があるのだと捉えた認識そのものが、消えていこうとしています。
自分が映す現実世界は、全て心の内だと分かり、自分と世界は分かれてはいないのだと知る事になるのです。
自分と空間は一つであり、全ては、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、言わば、インナーワールドである事を知る事になるのです。
自分の現実は全て、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂が、魂の進化の為に「想像=創造(そうぞう)」したものであり、全ては最善の目的の為に起きている事を知る事になります。
これにより、幸福・不幸という概念そのものが、消えていこうとしています。
肉体の自我意識(表面意識)の視点から、様々な出来事を幸・不幸、運・不運と捉えてきた認識そのものが、消えていこうとしているのです。
言わば、幸・不幸という概念すら超えた高みへと、私達人類の意識は、これから飛翔しようとしているのです。
自分の人生の主体者・創造者であり、本源の我、真我である、我が魂の想いを感じ、魂の願いに意識を合わせられるようになると、幸福・不幸という概念そのものが消えていく事になるのです。
永遠不滅の存在であり、天上界へと無限に続く意識の旅をしている我が魂の願いは唯一点、光り輝く魂になる事なのです。
魂の更なる輝きを求めて、魂の進化の為に、我が魂は、全ての現実を「想像=創造(そうぞう)」しているのです。
自分が映す現実世界は全て心の内だと分かり、豊かなる心の位置で、豊かなる世界が現れてくるのを体験する時、光り輝く魂になる事を求めて、この人生の全てを「想像=創造(そうぞう)」した、我が魂の夢を想い出す事になるのです。
西暦二〇一三年(平成二五年)六月一日
大和富士
本当は誰もいないーただ大宇宙がある
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界、言わばインナーワールドであり、自分一人の世界なので、自分しかいない世界だと言えます。
ところが、自分という存在も、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎません。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つであり、ある一つの角度・視点を受け持って、大宇宙を映し出して見ているテレビカメラの中の一つにしか過ぎないので、自分自身という者すら、本当はいる訳でもないのです。
この大宇宙に唯一実在しているのは大宇宙意識のみであり、物理的大宇宙の全ては大宇宙意識の顕れなので、自分という存在も、大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、ある一つの角度・視点から大宇宙を映し出して見ている「支店=視点(してん)」の中の一つにしか過ぎないのです。
自分が見ている現実世界とは、自分一人の世界であり、自分しかいない世界なのですが、自分という者すら本当はいる訳ではないので、自分すらいない世界であり、誰もいない世界だという事になります。
自分が見ている現実世界には、本当は誰もいません。
ただ、大宇宙意識とも言うべき大宇宙があるだけなのです。
自分の唯一のプログラム
自分の目に映る現実世界とは、全て心の内であり、そこに存在しているかに見える全ての人や、事、ものは、自分を解放するプログラムとして存在しているだけです。
自分を解放し、宇宙へと帰るプログラムとして、存在してくれているだけなのです。
そして、自分が体験するプログラムとは、自分の唯一のプログラムなのです。
この大宇宙に二つと同じものが無い、自分の唯一のプログラムなのです。
本源の我、真我である、我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の、ある一つの点です。
大宇宙に無数に存在する、ある一つの「支店=視点(してん)」を受け持って、そこから大宇宙を映し出し、大宇宙を味わって体験している存在なのです。
そして、肉体の自我意識(表面意識)がとらわれている、自分という「我」を外し、自分を解放して、宇宙へと帰る旅をしている存在なのです。
自分という者すら、本当はいる訳ではないので、その事を想い出し、宇宙へと帰って行くプログラムがあるのです。
自分を解放するプログラムとして、自分の唯一のプログラムを体験しているのです。
自分を解放するプログラム
自分の目に映る現実世界とは、自分の意識が創り出した世界であり、全て心の内、言わば、幻の世界です。
そこに存在しているかに見える全ての人や、事、ものは、ただ、自分を解放するプログラムとして存在しているだけです。
自分を解放し、宇宙へと帰るプログラムとして、存在してくれているだけなのです。
ですから、自分が映す現実世界にとらわれ過ぎず、心を傾け過ぎない事が大切になります。
何かに強くとらわれたり、執着したりするところに答えがある訳ではなく、心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心になるところに答えがあるからなのです。
自分というものにも、あまりとらわれ過ぎない事が大切になります。
自分自身を宇宙へと解き放っていく、自分を解放する旅をしているだけだからです。
そして、自分という者も、本当はいる訳ではなく、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎない事が分かれば、自分を解放出来るかも知れません。
どれだけの意識を創れたかが大切
人はとかく、夢の実現や理想の人生、何を成したかとか、何を手に入れたかという事に、フォーカスし過ぎる傾向があります。
しかし、私達の人生の基本テーマは、魂の進化という事であり、魂の進化というプログラム上にしか私達の人生は存在していませんので、どれだけの意識を創れたかという事が、とても大切になります。
何を成したかとか、何を手に入れたかという事柄の中に、人生の真の答えがある訳ではありません。
何を成したかではなく、どれだけの意識を創れたかが大切なのであり、そここそが、天から問われている事なのです。
今を良しとする力、すべてを完として捉える力
私達は、今を良しとする力、全てを完として捉える力を、常に試されているとも言えます。
人はともすれば、自分が映す現実世界に不平不満を覚えたり、自分自身の事を不幸・不運と感じたり、現実世界を美しくないと感じたりしてしまいがちです。
しかし、それはあくまでも、肉体の自我意識(表面意識)から見た視点であり、最も低い位置からの視点でしかありません。
大空を飛ぶ鳥の目から見た鳥瞰図という言葉があるように、もっと高い次元、即ち、大いなる我、真我である我が魂、あるいは、大宇宙意識の目から見れば、自分自身は今、完璧な場所にいるのであり、何一つ矛盾もありません。
魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいるのであり、自分が今、最も進化・成長出来る、最善の環境に生かされているのです。
ただ、その事が、肉体の自我意識(表面意識)では、分からないだけなのです。
例え、表面意識では分からなくても、光り輝く魂になる事を求めて、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいる、我が魂の夢は、100%叶っているのであり、今、この世界を完璧に通過中なのだという事を、想い出す力が求められています。
何時如何なる時、例え自分がどんな状況に置かれていたとしても、本源の我である我が魂が豊かである事を信じ切れるか、大宇宙が豊かである事を信じ切れるか、という事が常に問われています。
今を良しとする力、全てを完として捉える力が、常に問われているのだと言えます。
新しい世界観
拙書『富士は晴れたり日本晴れ』より
★新しい世界観
今、私達人類に最も必要なのは、新しい世界観だと言えるかも知れません。
今までの世界観とはまるで次元が違う、新しい世界観であり、この世界観が入って初めて、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新しい地球を創造出来ると言っても良いかも知れません。
人類が数千年間使ってきた世界観は、もはや古過ぎて使い物にならなくなってきており、完全に行き詰まりを見せつつあります。
今、地球上のあらゆる面において行き詰まりが感じられ、未来に対する明確なビジョンが描けなくなっているのは、今ある世界観が古過ぎて、もはや新たな未来を創造していく事は出来ない所まで来ているからなのです。
全てを包含するだけの力を持った新しい世界観により、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金時代を迎える事になります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
魂の夢
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★魂の夢
人は誰でも、心に様々な夢を描いて生きているのだと思います。
ああしたい、こうしたい、あれがほしい、これがほしい、ああなりたい、こうなりたい、という具合に、人により、様々な夢があるのだと思います。
多くの人が抱く夢というものを、一般的な言葉で表現するとしたら、健康・長寿、お金・富、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の仕事、豊かな人間関係、社会的成功、地位・名誉、というような事になるのかも知れません。
そして、それらの事柄を夢として抱く事自体は、心を成長させていく旅のプロセスには必要な事であり、OKなのですが、夢の実現というものを、自分の理想とする形にこだわり過ぎてしまうと、ともすれば、夢というものが叶っていないような、失望や挫折感を味わってしまうかも知れません。
しかし、忘れてはならない夢というものが、もう一つあります。
それは、魂の夢という事です。
魂の夢を感じてみる、魂の夢に意識を合わせる、魂の夢を想い出す、という事が大切になります。
そして、魂の夢とは、魂を進化させる事であり、光り輝く魂になるという事です。
心を純化、意識を福化させ、心の器を大きくし、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心になる事が、魂の夢という事になります。
自分の人生の主体者・創造者は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂なので、いつ如何なる時であっても、我が魂の夢は、常に100%叶っているのだという事を想い出す事が大切になります。
例え、肉体の自我意識(表面意識)から見れば、失敗続きの人生で、夢は少しも実現していないかのように感じられたとしても、心を無地透明にして、いずこにもとらわれない心、豊かな心になっていくという、我が魂の夢は、ちゃんと叶っている、実現しているのだという事を忘れない事が大切になります。
魂の夢は、ただ一点、魂の進化という事であり、光り輝く魂になる事なのです。
例え自分の人生が、思い通りでないように感じられたとしても、魂の進化としての道を最短距離で突き進んでいる、本当の自分自身というものを想い出す力が大切になります。
我が人生の主体者・創造者である我が魂から見れば、人生の全ては思い通りであり、夢は100%叶っているのだという事を、常に忘れない事が大切になります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
私達は、魂の進化と呼ばれる、意識の旅をしています。
そして、その旅とは、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う、という旅であり、心の純化、意識の福化の旅であると言えます。
人は、とかく、夢の実現や、理想の人生という事にフォーカスし過ぎる傾向がありますが、魂の進化の旅においては、そこには答えはありません。
天の仕組みとして、創った心は失われ、創った思いも失われるという仕組みになっています。
何故なら、そうやって、心は進化していくからです。
人はともすれば、何かが手に入れば本当に幸福になれる、とか、あれさえ実現できたら、真の幸福が手に入ると考えたりします。
ところが、仮にそれらの事柄が実現したとしても、真の幸福を得られる訳ではありません。
また心は満たされなくなり、次の夢や目標を探し始めます。
そして、これは際限が無い事なので、どんなに巨万の富を得ようとも、どんなに権勢を極めようとも、どんなに栄華を極めようとも、それによって真の幸福が得られる訳ではない事を、最終的には、天に思い知らされる事になります。
心を無地透明にして、ピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、全てを喜びと感じられる心、いずこにもとらわれない全天候型の心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創る以外に、永遠の幸福へと至る道は用意されていないからです。
ある特定の何かが手に入れば真の幸福が得られると思っていても、その思いは必ず、外される事になります。
これは、仕組みなのです。
何かが手に入ろうと入るまいと、例え自分がどんな状態にあろうとも、その状態を遊んで幸福を感じていられる心になるところに、答えがある訳なのです。
ですから、自分が創った心は必ず失われ、自分が創った思いも必ず失われる仕組みになっていますから、そうやって、旅のプロセスを楽しんで行く事が大切になります。
心と感じるままに、心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失いながら、魂を進化させて行く旅が、私達の人生だと言えるかも知れません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
魂の願い
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★魂の願い
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、人生に起きる全ての事は、我が魂の進化の為に起きているという事になります。
そして、全ての出来事を起こしているのは、他ならぬ自分自身、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、本源の我、真我である、我が魂なのです。
我が魂が、自らの進化を、自らの更なる輝きを求めて、全ての現実を創造しています。
魂の願いはただ一点、光り輝く魂になるという事です。
魂は、自らの更なる輝きを求めて、自分自身が最も進化出来る、最適な状況を創造します。
そして、魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事とは違います。
魂にとっては、心の器を大きくして、心を純化・意識を福化させる事だけが関心事なので、その為に必要と思われる最適な状況を創造します。
その中には、病気や怪我、お金を失う事、失恋・離婚、失業、失敗、社会的地位や名誉を失う事、人間関係を失う事など、一般的に、不幸・不運と呼ばれるような状況も多く含まれます。
一方、肉体の自我意識(表面意識)の関心事は、多くの人にとっては、健康・長寿、お金や富を得る事、素晴らしい異性との恋愛・結婚、理想の仕事、社会的成功、地位・名誉、素晴らしい人間関係など、一般的に、幸福・幸運と呼ばれるような状況かも知れません。
このように、本源の我である魂の関心事と、肉体の自我意識(表面意識)の関心事とが違い、差(ギャップ)がある為に、本当は、自分の魂が望んで創造した人生なのに、ともすれば、人生がつらく苦しく、あたかも自分が被害者であるかのように感じたりしてしまいます。
しかし、創造の主体者である我が魂にとっては、体験する全てが喜びなので、そういう魂の想いを感じ、魂の願いに意識を合わせていく事が大切になります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
魂の進化
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★魂の進化
私達の人生には、基本となるプログラムが存在しています。
生きるのには目的があり、それは、魂の進化という事なのです。
私達の人生は、魂の進化というプログラム上にしか存在していませんので、人生の全ては、魂の進化の為にあるのだと言えます。
魂の進化とは、心の純化・意識の福化という事であり、心の器を大きくして、無地透明なピュアな心、生きているうれしさをやさしく感じられる心、豊かな心、いずこにもとらわれない全天候型の心、全てを喜びと感じられる心へと、心を飛翔させていく事なのです。
如何なる人生を歩もうとも、如何なる事を成そうとも、人生のテーマはただ一点、魂の進化という事なのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
自分の目に映る現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、全てが主観の世界なので、自分が変われば、世界が変わります。
自分の心が美しくなれば、現実世界もまた美しく輝きます。
自分の内面が輝けば輝く程、自分の目に映る現実世界は、本当に、輝きを増してきます。
生きている事それ自体がありがたい、うれしい、面白い、美しい、存在が感謝、という状態になればなる程、自分の目に映る現実世界は、本当に、ありがたい、うれしい、面白い、美しい、と感じられるようになります。
自分が輝けば、世界も輝きます。
自分が元気であれば、世界もまた、元気です。
とても単純な事なのです。
もしも今、自分の目に映る現実世界が美しく感じられないとしたら、それは、世界・大宇宙が美しくないのではなく、自分の心が美しさを感じられないだけなのです。
自分の心が美しくなれば、現実世界は美しく輝きます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
自分が変われば世界が変わる
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★自分が変われば世界が変わる
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、全てが主観の世界なので、世界を変えるのは簡単です。
それは、自分自身が変われば良いのです。
自分自身が変われば、現実世界の見え方がまるで変わってしまうので、世界が変わるのです。
自分が見ている現実世界とは、あくまでも、自分の内面の世界であり、全てが主観の世界なので、自分自身が変われば変わった分だけ、現実世界は、違ったふうに見えてきます。
自分が変われば世界が変わるのです。
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全てが主観の世界
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★全てが主観の世界
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界、インナーワールドであり、自分一人の世界なので、全てが主観の世界です。
自分が見ている現実世界とは、客観的な世界などでは全くなく、全てが主観の世界なのです。
私達一人一人の人間は全て、自分の意識を投影した、自分の内面の世界を見ているので、全てが主観の世界を見ているのです。
一人一人が見ている現実世界は、それぞれ違うという事なのです。
客観的世界など何処にも無く、全てが主観の世界であると言えます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
自分一人の世界
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★自分一人の世界
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、インナーワールドなので、現実世界とは、自分一人の世界であると言えます。
あくまでも、自分の内面の世界が外に映し出されているだけなので、自分の他には本当は誰もいる訳ではなく、自分一人の世界、という事になります。
自分の目に映る全てが自分自身だとも言えます。
自分がいて、自分以外の何か確固とした客観的な世界が外にあり、それが現実世界なのではなく、現実世界とは、自分自身の意識の中にある世界であり、そこには自分しかいない、自分一人の世界なのです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
現実世界とは
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★現実世界とは
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界を見ているのであり、全ては心の内の景色、言わば、幻です。
自分の心の中にある心象風景とでも言うべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているに過ぎません。
自分の脳の中にある内面の世界を、映像として映し出して見ているに過ぎないので、テレビや映画を見ているのと同じような状態だと言えます。
空間という、360度立体のバーチャルなスクリーンに映し出して、自分の内面の世界を見ているという訳なのです。
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を映し出す「鏡」の世界であり、自分の脳が創り出した、言わば、バーチャルリアリティー(仮想現実)の世界なのです。
自分の外の世界に、何か確固とした客観的な現実世界がある訳ではなく、現実世界とは、自分自身の意識の中にあるのです。
自分が見ている現実世界とは、自分の意識が投影された、どこまでも自分の内面の世界なのであり、言わば、インナーワールドなのです。
私達は、自分自身の意識の内面の世界を、体験し、味わっているのです。
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一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
自分が見ている宇宙(世界)とは、自分の意識の中にあるものなので、自分自身が、自分の宇宙(世界)の創造主です。
大宇宙意識の分霊(わけみたま)として、一つの支店として、一つの視点から、この大宇宙を映し出し、自分の宇宙(世界)を創造して体験し、味わっているのです。
ですから、自分が見ている宇宙(世界)とは、自分独自の宇宙(世界)なのです。
私達人間は、一人一人が、大宇宙意識の分霊として、それぞれ独自の「支店=視点(してん)」を受け持っていますので、自分独自の視点から、この大宇宙を映し出して見ています。
一人一人が、自分独自の視点から、自分独自の宇宙(世界)を創り出していますので、一人一人が、自分の宇宙(世界)の創造主なのです。
地球上に70億人の人間がいれば、70億通りの視点があり、70億通りの宇宙(世界)があるという事なのです。
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意識の中に大宇宙がある
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★意識の中に大宇宙がある
相対世界である物理的大宇宙は、絶対世界に唯一実在する大宇宙意識により創られた世界なので、物理的大宇宙とは、大宇宙意識の中にあるものです。
同様に、本源の我であり、真我である我が魂は、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一点を受け持って、ある一つの角度・視点から、大宇宙を映し出して見ている支店の中の一つなので、自分が見ている大宇宙とは、実は、自分の意識の中にあるものなのです。
物理的大宇宙の中に大宇宙意識がある訳ではなく、大宇宙意識の中に物理的大宇宙があるのであり、同じ事が、大宇宙意識の分霊である、自分自身にも言える事なのです。
物理的大宇宙の中に自分の意識があるのではなく、自分が見ている大宇宙とは、実は、自分自身の意識の中にあるものなのです。
この物理的大宇宙とは、意識によって創られた世界なのです。
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大宇宙意識と本源の我
拙書『魂の夢、光り輝く魂』より
★大宇宙意識と本源の我
自分の人生の主体者は、本源の我であり、真我である、我が魂です。
本源の我であり、真我である、我が魂は、大宇宙の根本主体である、大宇宙意識の分霊(わけみたま)であり、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点です。
大宇宙意識と本源の我は、本質において同じものであり、自分自身の中には、大宇宙の根本主体である大宇宙意識が持つ、「無限」の属性とでも言うべきものが、宿されているのです。
絶対世界に唯一実在する大宇宙意識が「想像」した事が、そのまま100%「創造」されているのが、物理的大宇宙です。
そして、我が魂は、大宇宙意識の分霊なので、本源の我であり、真我である、我が魂が「想像」した事が、そのまま100%「創造」されているのが、自分が映す現実世界なのです。
自分の現実は全て、真我である我が魂が「想像=創造(そうぞう)」したものなのです。
大宇宙意識と我が魂の関係を、コンピューターに例えるとするならば、大宇宙意識が、巨大なホストコンピューターであり、我が魂は、そこから出ている、無数の端末機の中の一つであると言えます。
大宇宙に無数に存在する支店(してん)の中の一つであり、一つの視点(してん)を受け持って、そこから大宇宙を映し出して見ているという訳なのです。
大宇宙に無数に存在する「支店=視点(してん)」の中の一つとして、そこから大宇宙を映し出して見ているモニターの中の一つであり、大宇宙に無数に存在するテレビカメラの中の一つであるとも言えます。
相対世界である物理的大宇宙は、絶対世界にある大宇宙意識のイメージを、映し出し体験する為の「鏡」の世界です。
物理的大宇宙の全ては、大宇宙意識の顕れなので、大宇宙意識は、ありとあらゆる全ての角度・視点から、自分自身を体験し、味わっているのだと言えます。
大宇宙の根本主体である大宇宙意識の分霊として、ある一つの角度・視点から、この大宇宙を体験し、味わっているのが、本源の我であり、真我である、我が魂なのです。
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新著「永遠(とわ)の中今」の内容をご紹介致します!
3月22日発売の新著「永遠(とわ)の中今」の内容をご紹介致します。
当ホームページから、ダウンロード購読する事も出来ます。
ダウンロード購読は、1260円(税込)となります。
はじめに
本書は、「富士は晴れたり日本晴れ」に続く、第二作目の著書となります。
第一作「富士は晴れたり日本晴れ」と併せて本書をお読みいただくと、より一層理解が深まるように書かれていますので、本書をお読みいただいた方は、ぜひ、「富士は晴れたり日本晴れ」も併せてお読みいただく事を、強くお奨め致します。
この21世紀において、私達人類の意識は飛躍的進化を遂げ、さなぎから蝶へと生まれ変わり、新たな地球の誕生を迎える事になります。
物質文明の次に来る新たな精神文明、花咲く都・黄金文明が花開き、私達人類の新たな黄金時代が幕を開けます。
平和で自由な、喜びに満ちた世界が花開きます。
キリスト教の世界で言われる、「至福千年王国」の事でもあります。
宇宙時代が幕を開け、私達人類は、宇宙時代を迎えるのです。
そして、新しい地球を開くのは、私達日本人なのです。
東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本から、新しい地球の幕が開きます。
本書は、日本人の遺伝子を目覚めさせる、新しい時代のメッセージとして世に出されたものです。
本書が、新しい時代を生きる皆様のお役に立つ事を願っています。
大和富士
目 次
はじめに
永遠(とわ)の中今
永遠(とわ)の中今
永遠とは
色即是空 空即是色
根本創造主の孤独
絶対の静寂(しじま)ー絶対世界とは
「あり得ない」という事こそ、「あり得ない」ーあらゆる事があり得る
一切無、一切幻
大宇宙の全ては完
全ては、大宇宙(神)の弥栄
大宇宙そのものが、完璧なスーパーコンピューター
ここは、緑美しき懐かしき地球(追想の中)
生きるヒント
幻の世と知って生きることに、生命の輝きを見る
本源の我、真我である、我が魂
現実世界とは、心を映し出す鏡
ここは「追想の中」ー「追体験」
明日を感じて今日を生きる
生きる目的は、魂の進化
心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
魂の進化の場として与えられた運動場
魂の夢、光り輝く魂
自分を解放するプログラム
人は常に、自分が今、最も学び、成長し、進化出来る最善の場所にいる
現実という空間全てに、常に、遊びという学びが用意されている
宇宙はメッセージだらけ
真のワンネスとは
真(まこと)のみを映す鏡
全ては愛のメッセージ
生きるとは、創造する事
全てを喜びに変える創造
この世界は自分次第
肉体という衣について
自分の両親を自ら選んで生まれて来ている
あらゆる否定を無くする
この世にあるもの全てが御魂の肥やし
神の想いは、人を神ならせる事ー現象の基にある、神の優しさ
神を知りたければ己の内を見る事ー自分の中にある神性、内在神
神は一番下から出て来るー最も落とした所ほど最も貴い
「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になる
内なる神真釣り(祀り)がまず先ー外の神真釣り(祀り)は型示し
神の道に奇跡なしーあるのはただ普通の道のみ
現界(現実)の中に神界がある
弥勒世とは今ここにある
多次元に生きる、本源の我
今ここに生きる事が、常なるテーマ
幸福なるもの形にあらず
プラス思考を超える
全ては原因、全ては結果、全ては意味の付け方次第
我が心救うは、我が心のみ
天の大いなる意志に自己を明け渡す
自分の中に全ての答えがあるー内的な知り方と外的な知り方
魂の記憶を蘇らせる
魂の記憶が蘇ると、人生の全てが、予定どおりだった事を想い出す
全ては我が魂の計画
生きているうれしさをやさしく感じる
自分の肉体を超えた、自分の本質の光を想い出す
人生の全ては、輝きの中のものー内なる光は消える事なく私を照らす
新しい地球
銀河系宇宙の中の地球という星
天変地異ー天変わりし時、地異なる
最も大きな変化とは、最も静かな変化
人類は、さなぎから蝶へと、飛躍的に進化する
地球人類総真釣り(総決算)の時
地球は未曾有の領域に突入する
全てが白日の下に明らかにされる時代
無限の宗教ー絶対の宗教、永遠の宗教
イエス・キリストの復活とはー内的な復活と外的な復活
人間の無限の可能性とはー超能力と魂の進化は別問題
様々な予言・神示・チャネリング情報などについて
目暗信心(盲信する事)の戒め
一人一人が目覚める時代
全ては自分の認識でしかない
意識を創る事が地球の仕事
物質文明から精神文明へー日本から始まる新たな精神文明
宇宙時代の幕開けと、「至福千年王国」
富士・日本・大和
日本とユダヤー火の働きと水の働き
世界の聖地にある聖火ー聖なる火の元・日本
霊(ひ)ノ元・日本の象徴、霊峰富士
日本三霊山(富士山、立山、白山)
天之御中主大神=ヤーウェ=天にまします父=アラー
祓戸大神(瀬織津比売、速開都比売、気吹戸主、速佐須良比売)
九九=白、白山菊理媛(白山比咩神)
「一厘の仕組み」「最後の一厘」について
神々の名前(御神名)について
恵比寿の働きについて
金鯱(きんのしゃちほこ)ー尾張(終わり)の仕組み
正式な結婚=結魂
諏訪大社、諏訪湖、諏訪マアカタの仕組み
阿波の国・徳島と、封印された四国(死国)
富士と飛鳥(明日香)
大いなる和「大和(やまと)」ー天(神)・地(自然)・人との大調和
スメラ(日本)の真釣りとイシヤ(ユダヤ)の魔釣り
おわりに
おわりに
本書が世に出る、西暦2013年、平成25年は、20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮とともに、出雲大社においても、60年ぶりとなる、平成の大遷宮が行われます。
表の神界の表の働きである伊勢神宮と、表の神界の裏の働きである出雲大社においての式年遷宮が重なる年となり、日本にとって、節目の年を迎えます。
そして、伊勢神宮の次の式年遷宮が行われる、西暦2033年までの間の20年前後が、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本の蘇りの時であり、私達日本人が、その本来の役割を果たすべき時なのです。
地球人類総真釣り(まつり)、総決算の時なのであり、新しい地球へと生まれ変わる為の最後の総仕上げの時なのです。
東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本は、今この時の為に、太古の昔から、用意されてきた民族であり、国家なのです。
今、私達日本人の中に眠る遺伝子が、目覚め、蘇り、花開く時を迎えています。
人類数千年の古い歴史が幕を閉じ、私達人類の新しい歴史が幕開けしようとする21世紀の今この時、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本に生まれて来て、想像だにない大変化のプロセスを身を以て体験するというのは、本当に稀有な事なのです。
西暦2013年(平成25年)1月1日
大和富士
書籍「富士は晴れたり日本晴れ」の内容をご紹介致します。
2012年11月22日(木)正式発売の書籍「富士は晴れたり日本晴れ」の内容をご紹介致します。
書籍「富士は晴れたり日本晴れ」は、日本人の遺伝子を目覚めさせる、新しい時代のメッセージとして世に出されたものなので、一人でも多くの人々に読んでいただきたく、「まえがき(はじめに)」、「目次」、「あとがき(おわりに)」をご紹介させていただきます。
(実際の書籍においては、縦書きで書かれています。)
はじめに
21世紀の今、私達の母なる星・地球は、新しい地球へと大きく生まれ変わろうとしています。
そして、私達人類もまた、意識が飛躍的に進化して、さなぎから蝶へと生まれ変わるような、大きな変革の時を迎えています。
これは、太古の昔から決められていた天のプログラムであり、今地球上で起きている全ての事は、人類の意識の飛躍的進化と、地球の新たな誕生に向けて起きてきています。
そして、新しい地球の誕生は、私達の太陽系は元より、銀河系宇宙にまで影響を与えるような出来事なのです。
有史始まって以来とも言うべき大変革のプロセスを経て、「世の建て替え・建て直し」が行われ、西暦2030年代には、想像だにない新しい世界が誕生していることでしょう。
それは、花咲く都・黄金文明とでも呼ぶべき、新たな精神文明の時代であり、「至福千年王国」と呼ばれる世界の事でもあるのです。
私達人類が待ちに待った、平和で自由な、喜びに満ちた世界が花開く時を迎えます。
宇宙時代が幕を開け、私達人類は、宇宙時代を迎える事になるのです。
そして、新しい精神文明の中心となるのは、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本であり、私達日本人なのです。
新しい地球が誕生する時代の中心的役割を果たす日本人一人一人に、ぜひ知っていただきたい事を、まとめてみました。
本書は、日本人の遺伝子を目覚めさせる、新しい時代のメッセージとして世に出されたものです。
今の常識では理解しがたいような表現もあるかも知れませんが、自らが持つ固定観念ですぐに否定しようとしたりせず、ピュアな心で、まずは一読される事を強くお奨め致します。
いずれ私達は、今ある常識の変更を余儀なくされる事になるでしょう。
本書が、これからの新しい時代を生きる皆様のお役に立つ事を願っています。
大和富士
目 次
はじめに
大宇宙
絶対世界と相対世界
根本創造主という唯一の実在
全ては、神の顕れ
想像=創造
大宇宙=無限
永遠(とわ)の中今
大宇宙には、始まりも無ければ終わりも無い
大宇宙の全ては、光の中
物理的大宇宙は、仮相の世界
全ては、神の戯れ(リーラ)
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象
大宇宙は、調和された完全な世界
大宇宙の森羅万象を貫く一つの力学(法則)
全ては、大宇宙の計画の中
全ては必然、一切偶然なし
未来からやって来る時間
未来は、確定的に存在している
大宇宙は、多重多次元構造
今ここにある時空は、かつて存在した時空
新しい世界観
大宇宙意識と本源の我
意識の中に大宇宙がある
一人一人が自分の宇宙(世界)の創造主
現実世界とは
自分一人の世界
全てが主観の世界
自分が変われば世界が変わる
心が美しくなれば、現実世界は美しく輝く
魂の進化
魂の願い
心を創り、心を失い、思いを創り、思いを失う
魂の進化の場として与えられた運動場
魂の夢、光輝く魂
今を良しとする力、全てを完として捉える力
どれだけの意識を創れたかが大切
自分を解放するプログラム
本当は誰もいないーただ大宇宙がある
神についての二つの概念
進化論は誤り
原因は結果により選ばれている
「因果律」は一面の真理でしかない
「想いは実現する」とは
全ては我が魂の計画の中
魂の記憶を蘇らせる
自分の中に全ての答えがある
人生は全て決まっている
大宇宙の操り人形
ここは「追想の中」
生まれ変わる地球
人類はさなぎから蝶へと飛翔する
高次元空間への移行
次世代情報へのバージョンアップ
新しい世界観
幸・不幸という概念を超える
大変とは、大きく変わる事
意識変革の風
自分の中に神を見る時代
神性を顕現して生きる時代
花咲く都・黄金文明
唯一の救世主など存在しない
奇跡では人類は救われない
唯一の教え・道というものは無い
霊性と知性の進化
科学技術が果たす役割
日本から始まる新たな精神文明
西洋の時代から東洋の時代へ
次の覇権国は日本
2030年代に花開く「至福千年王国」
霊(ひ)ノ元・日本
「ひのもと」日本
日本は世界の雛形
日本の象徴、霊峰富士
霊峰富士が持つ世界に二つとない(不二)働き
日本の国旗・日の丸が象徴するもの
神武三千年の神計り
大和の国・日本
大いなる和の心「大和心」
日本人が持つ柔軟性・寛容さ
神道(八百万神)と、アニミズム(精霊信仰)
日本語の果たす役割
美しき大和の国
個の花を咲かせて生きる時代
日本が世界平和を実現させる
イスラエルの失われた十支族
二つのユダヤ
「ノアの箱舟」と大洪水
日本で花開く「新しきエルサレム」
富士は晴れたり日本晴れ
おわりに
おわりに
江戸の幕末期に生きていた人々は、それからわずか百数十年後に、今のような世界が誕生しているとは、おそらく誰も想像すら出来なかったと思います。
良くも悪くも、科学の目覚ましい進歩により、今のような社会が存在している事を、夢想だに出来なかったと思います。
そして、長く鎖国を続けていた上に、テレビも無い時代の幕末期の人々にとっては、世界中にどんな国々があり、どんな人々がいるのかさえも分からない訳ですから、世界とか、地球という概念すら、あまり持てなかったかも知れません。
それと同じように、本書が世に出てからわずか20年位で、今ある世界からは想像だにない新しい世界が誕生しているという事を、多くの人々は、想像出来ないかも知れません。
人類数千年の古い歴史が幕を閉じ、私達人類の新しい歴史が幕開けしている事を、なかなかイメージ出来ないかも知れません。
しかし、今から20年位後には、今ある世界からは想像だにない、新たな地球が誕生する事になります。
私達人類は、新たな黄金時代を迎え、宇宙時代を迎える事になるのです。
実は、真の世界平和、地球の恒久平和は、人類が宇宙時代を迎える事により、実現するのです。
「井の中の蛙,大海を知らず」という諺がありますが、地球という小さな星の中だけしか知らずに、様々な争いや対立を繰り返してきた人類は、宇宙時代を迎え、大海とも言うべき大宇宙を知る事により、一つにまとまる事になるのです。
今から20年位の間に、私達人類は、今ある常識、概念、世界観などを、根底から覆される事になるでしょう。
そして、地球の全生命がどのようにして創造されたのか、聖書に書かれているような人類の歴史とは何だったのかについて、真実を知る事になるでしょう。
そして、宇宙時代の幕を開き、宇宙時代をリードしていくのは、私達日本人なのです。
東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本は、「至福千年王国」の中心地であり、地球・世界の中心となって、世界をリードしていく事になるのです。
地球が新しい誕生を迎える21世紀の今、東洋の日出る神国、霊(ひ)ノ元・日本に生まれて来た私達日本人には、とても大きな使命と役割が与えられているのです。
本書は、新しい地球をリードしていく日本人一人一人へのメッセージとして、世に出させていただきました。
西暦2012年(平成24年)8月15日
大和富士
弥勒世とは今ここにある
弥勒世という言葉があり、地上天国とでも呼ぶべきパラダイスのような世界を表している言葉だと思われます。
そして、地上天国とも言える新たな黄金文明、花咲く都は、この21世紀に日本を中心として地球上に花開く事になっています。
その世界の事も、弥勒世というように表現出来るかと思います。
しかし、本当は、弥勒世とは、どこか遠い未来にあるとか、ある形の中にあるとかではなく、今、ここにあります。
ここが既に弥勒世だと知る事が大切になります。
この世界は、神が創り賜うた美しき世界です。
例え美しくないように見える部分・紋様があったとしても、それらも含めて、清濁併せ持った美しさの中にあります。
私達人間は、近視眼的なものの見方しか出来ず、様々な紋様を見て、この世界は美しくないと感じたりしていますが、天の神仏の目から見れば、何一つ矛盾するものも欠けたるものもない、調和に満ちた美しき世界であり、この世界が既に弥勒世だと言えるかも知れません。
私達は、神が創り賜うた、この美しき世界、清濁併せ持った美しき世界に生かされ、生きているのであり、既に弥勒世に生かされ生きているのだと言えるかも知れません。
気の遠くなるような遠い未来を待たなくても、弥勒世とは、今、ここにあります。
ここが既に弥勒世だと知る事が大切であり、弥勒世とは、私達の心の中にあるとも言えるかも知れません。
この世界は自分次第
多くの人達は、現実世界とは、何か、確固とした客観的な世界だと考えているかも知れません。
しかし、何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の内面の世界であり、インナーワールドです。
自分の脳の中にある、心の心象風景とでも呼ぶべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、映画やテレビを見ているのと同じような状態だと言えるかも知れません。
ですから、自分が見ている現実世界とは、自分の内面の世界なので、どこまでも、主観の世界であり、客観的世界など、何処にもありません。
自分と世界は一つであり、自分と空間は別れてはいません。
この事が分かれば、この世界は自分次第だという事が分かります。
自分の外に、何か確固とした客観的な世界があるのであれば、もし自分が見ている世界を変えたいと望んだ場合、世界に対して変革を迫る闘いを挑まなければいけなくなります。
しかし、自分と世界は一つであり、分かれている訳ではない事が分かると、自分が変われば世界が変わるので、世界を変えたければ、自分自身が変われば良いという事が分かるかと思います。
自分自身が変われば、世界の見え方が、まるで変わってしまいます。
現実世界とは、自分の外にある、断固として微動だにしない敵のような存在ではなく、自分の内面の世界なので、言わば自分自身であるとも言えるので、敵ではなく味方であり、友達のようなものだと考えてもいいかも知れません。
ですから、現実世界という、この空間を最高の友として遊んでいけばいいと言えるかも知れません。
自分の心を、あたかも鏡に映し出すが如く如実に映し出して見せてくれますので、空間というスクリーンに映しだされた自己の内面を見ながら、瞬間瞬間の創造を楽しんでいけばいいという事になります。
もし、今、自分の目に映る世界が美しく感じられないとしたら、それは世界が美しくないからではなく、自分の心が美しさを感じられないだけなのです。
自分の心が美しくなればなる程、現実世界はより一層美しくなり、輝きを増します。
自分が見ている現実世界とは、自分の内面の世界であり、自分と世界は一つであるという事は、世界は我が手の内だという事にもなりそうです。
この世界は自分次第でどうにでもなる、魔法のような不思議な世界だと言えるかも知れません。
全ては愛のメッセージ
自分が見ている現実世界に映る様々な人や出来事の全ては、私に向けての愛のメッセージだと言えるかも知れません。
自分の目に映る様々な人や出来事などの紋様は、自分に何かを気付かせてくれる、教えてくれる為に存在している、愛のメッセージなのかも知れません。
コンピューターには基本ソフト・OSが入っているように、私達の人生にも、基本となるソフト・OSがあります。
その基本ソフトの名は、「魂の進化」と呼ばれるものであり、私達の人生とは、「魂の進化」というプログラム上に存在していると言えます。
「魂の進化」というプログラムを体験する場が、私達の人生であると言えるかも知れません。
そして、自分が体験するプログラムとは、私の唯一のプログラムであると言えます。
一人一人が皆それぞれ違うプログラムを体験するので、私が体験するプログラムは私の唯一のプログラムであり、私のプログラムは全て、私の「魂の進化」の為に存在していると言っても良いかと思います。
ですから、自分の目に映る現実世界の全ては、私の「魂の進化」の為に存在しているという事になります。
既に何度も書いているとおり、自分が見ている現実世界とは、自分の意識を空間というスクリーンに投影した自分の内面の世界、言わば、インナーワールドなので、本当は、外の世界に誰もいる訳ではないのです。
自分の脳の中にある、心の心象風景とでも呼ぶべきものを、空間というスクリーンに映し出して見ているだけなので、言わば、映画やテレビを見ているのと同じような状態だと言えます。
そして、そこに映る様々な登場人物や出来事などの紋様は、我が心を開放する為に現れているだけだと言えます。
自分自身に何かを気付かせてくれる為、何かを教えてくれる為に、映っているだけなので、目に映る全ては愛のメッセージだと言えるかも知れません。
そんなに悩まなくてもいいよ、とか、そんなに悲しまなくてもいいよ、とか、そんなに苦しまなくてもいいよ、とか、もっと笑ってごらん、とか、ただ喜びを感じていればいいんだよ、とかいうような、愛のメッセージを携えて、我が心の開放を促してくれているだけだと言えるかも知れません。
自分の気に入らない事をすぐに、イヤだとか、苦しいとか、悲しいとか、不幸だとか、不運だとか決め付けてしまう癖、言わば、心の中の硬くこり固まった部分を解きほぐしてくれる為に、様々な登場人物や出来事が、「魂の進化」というプログラム上に現れて来てくれているだけだと言えるかも知れません。
様々な登場人物や出来事を使って、様々な場面の中で、心を無地・透明にして、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心を創れるように、我が心の開放を促してくれているだけなのかも知れません。
我が心の開放こそが求められています。
全てを喜びと感じられる心、満ちる心を創れるように、目に映る様々な人や出来事が、愛のメッセージを携えて、我が心の開放を導いてくれています。
プラス思考を超える
よく、プラス思考、とか、プラス発想せよ、という言葉を耳にします。
しかし、このプラス思考というものには、限界があります。
何かをプラスと捉える認識は、そうでないものをマイナスと捉える認識とセットになっています。
うまくいく・うまくいかない、と捉える心が、プラス・マイナスという認識を創り出しています。
プラス・マイナスという認識から抜ける事が大切だと思います。
プラス・マイナスという認識は、自分がしているだけであって、自分が勝手に、ある事柄をプラス、ある事柄はマイナスと思っているだけの事だからです。
本来、一切の事柄には意味は無く、中立であり、無であり、幻だと言えます。
大宇宙の森羅万象の全てが、本来無事象であり、意味が無く、中立だという事なのです。
唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主の目から見れば、森羅万象の全ては、プラスでもなければマイナスでもありません。
自分自身という存在は、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点から、この大宇宙を映し出して見ているとも言えます。
そして、自分の心が透明でなく、曇りがあれば、色眼鏡で映る世界を見てしまう事になり、様々な事柄を、あるものはプラスと呼び、あるものはマイナスと呼んで、大騒ぎする事になります。
マイナスをプラスに転じようと無理に頑張らなくても、そもそも自分がマイナスという意味付けをしただけの事なのだと気付く事が大切だと思います。
心を無地透明にして、プラス・マイナスの認識を超えて行く事が心の成長であり、挑戦でもあると言ってもいいかも知れません。
真のワンネスとは
精神世界系の人達や、スピリチュアル系とか呼ばれる人達の間で、ワンネスという言葉が、よく使われたりしています。
「全ては一つ」とか、「貴方は私、私は貴方」というような意味で使われたりしているようで、隣人や、動物、植物なども、自分自身を愛するように愛しようと努力されている方達もおられます。
それはそれで尊い事だとは思いますが、「貴方は私、私は貴方」というのは、自と他が分かれたところの思考形態であり、自分と自分以外を分けた思考形態の中で、自分を愛するように自分以外のものも愛しようという試みには、少々無理が感じられます。
真のワンネスとは、この大宇宙には、唯一にして絶対、至高の存在である根本創造主しか実在していないので、この物理的大宇宙に存在する全てのものは根本創造主の顕れであり、全てがつながっており、全てが一つだという事なのです。
絶対世界に唯一実在する根本創造主の意識が想像したイメージが、相対世界・現象界である物理的大宇宙に物質化され創造されているので、全ては根本創造主の顕れであり、全てがつながっているという訳なのです。
そして、自分が見ている現実世界・大宇宙というものも、自分の意識を投影した、自分の内面の心の世界を空間というスクリーンに映し出して見ているに過ぎないので、自分が見ている現実世界・大宇宙というのは、我一人の世界、自分しかいない世界という事になります。
真のワンネスとは、自分の目に映る世界全てが私自身という事でもあります。
自分という存在は、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点とも言えるので、大宇宙に無数に存在するテレビカメラの中の一つを担当して、この大宇宙を映し出して見ていると言ってもいいかも知れません。
本来、自と他は分かれておらず、自分と空間は一つなので、自分の目に映る全てが自分自身だという事なのです。
ですから、敢えて自と他が分かれた思考形態の中で、「貴方は私、私は貴方」という事で他の人や動植物を自分自身を愛するように愛しようと努力しなくても、この映る世界全てが自分自身なのだと解れば、映る世界全てが愛しく感じられてくるかも知れません。
自分が見ている現実世界・大宇宙は、自分の意識を投影した自分の内面の世界であり、自分が見ている世界には自分しかいないというのは、奇想天外で、ちょっと信じがたい事かも知れません。
しかし、この事は、最先端の量子物理学が行き着いた結論でもあるとの事です。
「大宇宙の中に意識があるのではなく、意識の中に大宇宙がある」というのが、最先端の科学が行き着いた結論だという事のようで、人間の意識が大宇宙を創り出している、という結論に行き着いたそうです。
物理学者ではない私達は、理論としては理解出来なくても、自分の意識が進化して、魂の記憶とでも呼ぶべきものが蘇って来ると、理屈としてではなく、実感として解るようになってくると思います。
この現実世界とは、まさに「意識の海」とでも呼ぶべきものであり、私達は、「意識の海」の中を泳いでいる(遊んでいる)と言ってもいいかも知れません。
そして、この認識が、人類の一定数以上に浸透して初めて、真の世界平和というものも実現することになります。
自と他が分かれた思考形態の中で、様々な利害・宗教観・歴史観・価値観・世界観の相違・対立に明け暮れているうちは、真の世界平和が訪れる事はありません。
この映る世界には自分しかいないのだと認識出来る意識状態に到達して初めて、人類は、自分自身を傷付け、罰するのを止めて、心豊かな世界を創造するという意識に向う事が出来るからです。
本当は誰もいないーただ大宇宙がある
多くの人達は、自分がいて、自分以外の世界があり、それが現実世界だと考えているかも知れません。
現実世界とは、確固とした客観的な世界だと考えているかも知れません。
しかし、自分が見ている現実世界とは、自分の脳が画像処理したものを、空間というスクリーンに映し出して見ているに過ぎないので、あくまでも、自分の意識を投影した、自分の内面の世界、インナーワールドです。
自分の中の心の心象風景を、あたかも映画でも観るように、現実というスクリーンに映し出して見ているに過ぎません。
ですから、自分が見ている世界は、自分の内面の世界なので、自分が見ている世界には、自分しかいない、という事になります。
自分が見ている世界とは、我一人の世界と言えます。
ところが、自分という存在も、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎません。
言わば、大宇宙に無数に存在する視点の中の一つであり、大宇宙に無数に存在する、テレビカメラの中の一つを受け持っていると言えるかも知れません。
ですから、自分という者も、本当はいる訳ではなく、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、無数の視点の中の一つであり、ある一つの視点から、テレビカメラで映すようにして、この大宇宙を映し出して見ているという訳なのです。
この大宇宙に実在するのは、唯一にして絶対、至高の存在である、根本創造主のみであり、それを大宇宙意識と呼んでもいいかも知れません。
根本創造主である大宇宙意識が想像した事が、創造として物質化されたのが、この物理的大宇宙です。
物理的大宇宙は、根本創造主である大宇宙意識の意識を映し出す鏡の世界であり、ここに存在しているかに見える全てのものは、大宇宙意識の顕れに他なりません。
そして、物理的大宇宙は、仮相(仮の姿)の世界であり、幻の世界です。
自分という存在は、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点であり、一つの視点から、この大宇宙を映し出して見ているという事になります。
自分が映し出して見ているのは、自分の意識が投影された自分の内面の世界、インナーワールドであり、自分が見ている世界は、我一人の世界であり、そこには、自分しかいないのです。
そして、自分という存在も、大宇宙に無数に存在する座標軸の中の一つの点にしか過ぎないので、自分自身すら、本当はいない、という事になります。
自分が見ている現実世界とは、我一人の世界であり、自分しかいない世界なのですが、自分という者すら、本当はいる訳ではないので、自分すらいない世界であり、誰もいない世界だという事になります。
自分が見ている現実世界には、本当は誰もいません。
ただ、根本創造主ともいうべき大宇宙があるだけなのです。
自分が変われば世界が変わる
自分が見ている現実世界とは、自分の意識を投影した、自分の心の内の世界を見ているので、空間と自分は常に一つです。
自分と世界は別れていません。
ですから、自分が変われば、世界が変わります。
自分が見ている世界が美しく感じられないので、もし、世界を変えたいと思うなら、世界を変える方法がたった一つだけあります。
それは、自分自身が変わる事です。
自分と世界は一つなので、自分が変われば、見える世界が変わってしまいます。
一人一人が、自分の意識を投影した、自分の内面の世界、言わば、インナーワールドを見ているので、一人一人が見ている現実世界は、皆それぞれ違います。
全てが主観の世界なので、客観的世界など何処にもありません。
ですから、もし、今、世界が美しく感じられないとしたら、世界の方が美しくないのではなく、自分の心が、美しさを感じられないだけなのだと気付く事が大切だと思います。
自分が輝けば、世界も輝きます。
自分が元気であれば、世界もまた元気です。
自分の心が美しくなれば、世界もまた美しくなります。
とても単純な事なのです。
自分が変われば、世界が変わります。
全ては我が魂の計画
本源の我、真我とも言うべき我が魂の記憶が徐々に蘇って来ると、今までの自分の人生の全ては、我が魂の計画だったという事が分かります。
神の分霊(わけみたま)であり、我が人生の創造主である我が魂が、生まれる前に計画した通りに、寸分の狂いもなく、人生が展開して来た事が実感出来るようになります。
ある段階を経ると、理屈ではなく、実感出来ます。
そして、今までの我が人生は、完璧であり、最善の過去を経て来た事が分かります。
我が魂の完璧な計画のもとに、最善の人生を歩んで来た事が分かります。
多くの人は、自分の人生は失敗続き、不幸だらけの人生で、とても、完璧、最善の人生を歩んで来たなどと思えない、と感じられるかも知れません。
しかし、それはあくまでも、肉体の自我意識が感じている事であって、本源の我、真我とも言うべき我が魂から見れば、完璧で最善の人生を、計画通りに順調に歩んで来たと言えます。
本源の我、真我とも言うべき我が魂の関心事と、肉体の自我意識の関心事とは違います。
魂の関心事は、魂を進化させる事、言わば、光輝く魂になる事が目的です。
さらなる魂の輝きを求めて、我が魂は、この人生を創造したのです。
一方、肉体の自我意識の関心事は、多くの人の場合、健康、お金、理想の仕事、理想の異性、結婚、理想の家庭、理想の人間関係、社会的地位、名誉、心の平安、などと言えるかも知れません。
そして、幸福というものを、外にある形の中に求めて、理想の人生、理想の仕事、理想の家庭、理想の人間関係、理想の肉体などを望むのですが、幸福というものを、形の中に求めても、真の幸福が得られる訳ではなく、いつも、どこかしら満ち足りない思いを抱き続ける事になります。
幸福というのは、心が感じるものなので、あらゆる事に喜びを感じられる意識を創る事が出来れば、いつも幸福を感じていられるようになります。
さらに言えば、幸・不幸という概念すら消えて行くかも知れません。
心が全天候型になり、いずこにもとらわれない心、言わば、タイタン(巨人)のような心、豊かな心、満ち足りた心になる事が、魂の目的です。
そして、そういう心を創る為には、我を解放していく事が必要になります。
肉体の自我意識が囚われている「我」を外し、心を無地透明にして、我を解放するところに、真の喜び・平安があります。
そして、今までの自分の人生で、辛かった事、苦しかった事、悲しかった事、失敗した事等、不幸・不運・失敗と思える全ての出来事は、全て我の解放のプログラムだったという事になります。
我が人生の全てが、我の解放のプログラムです。
今までの自分の人生は、魂の計画通りに、我の解放を一歩一歩着実に進めて来ています。
自分にとって、最高・最善のプロセスを経て来ています。
そして、我の解放の旅はこれからも続きます。
全てはプロセスです。
今、自分の人生を苦しく感じている方も、全てを喜びと感じられる心を創る旅のプロセスの中にあります。
本源の我、真我とも言うべき我が魂が、光輝く魂になる事を求めて創造した我が人生を、魂の計画通りに最善の形で進んでいる自分自身を信じる力が大切になります。
幸福なるもの形にあらず
多くの人が囚われているものに、幸福という概念があります。
常に幸福というものを求め、それが得られずに、どこかしら、自分自身を不幸と感じています。
そして、幸福というものを、外にある形の中に求めています。
理想の人生、理想の家庭、理想の仕事、理想の人間関係、理想の体・・・。
幸福というものは、自分の心が感じるものなので、あらゆる事を喜びと感じられる意識を創る事が出来れば、あらゆる形の中に幸福を感じられるようになります。
そういう意識を創れないまま、ただ徒に、外にある形の中に幸福を求め続けても、心が真に満ちるという事がなく、常に、どこかしら、欠乏感を抱き続ける事になります。
幸福というものは、形の中にはなく、あらゆる形の中に、幸福があるのだと気付ける意識状態へと、人類の意識は進化して行く事になります。
あらゆる形の中に豊かさがあり、あらゆる形が幸福なのだと気付ける意識を創れるようになって行きます。
住む場所で言うならば、日本のように四季おりおりが美しい国ばかりに豊かさがあるのではなく、ハワイやタヒチのような常夏の国には常夏の国の豊かさがあり、シベリアやアラスカのような極寒の国にも極寒の国の豊かさがあり、サハラ砂漠のような所にも、砂漠の豊かさがあるということになります。
海の民には海の民の豊かさがあり、山の民には山の民の豊かさがあり、草原の民には草原の民の豊かさがあるという事になります。
住む場所を例に取りましたが、人生のあらゆる場面においても同じ事が言えるのであり、あらゆる形の中に豊かさが感じられ、あらゆる形の中に幸福が感じられるように、人類の意識はシフトして行く事になります。
幸福というものを形の中に求めても、その思いは必ず崩される事になります。
これは、仕組みなのです。
幸福というものを形の中に求め続けても、そこではありませんよ、と必ず天から思い知らされる事になり、あらゆる場面に豊かさ・喜びを感じられる意識を創って初めて、天からOKがもらえるからです。
幸福とは形の中にはなく、あらゆる形の中に豊かさ・喜びを感じられる心、幸・不幸という概念すら超えた意識へと、私達人類の意識は、これから飛翔して行く事になります。
幸・不幸という概念を超える
これから、新たな地球へと移行する過程において、人類が持っている概念で、大きな変更を余儀なくされるのが、幸福という概念です。
幸・不幸という概念を超えた高みへと、人類の意識は飛翔しようとしています。
幸福という概念は、対極に不幸という概念を持っています。
つまり、幸福という概念は、不幸という概念とセットになった考え方であり、どちらか一方だけでは存在出来ない考え方です。
今の人類の意識では、自分にとって心地良い状態、自分に都合の良い状態を幸福と呼び、そうでないものを、不幸と呼んでいます。
ある状態を幸福と呼び、ある状態を不幸と呼んで分けています。
これから人類が向おうとする新しい意識では、幸・不幸という概念が消えて行きます。
幸福というのは、自分の心が感じるものなので、あらゆる事を喜びで感じられる意識状態になると、全ては喜びとなります。
そして、ある状態を幸福、ある状態は不幸、と分けて考える事が出来なくなります。
そして、幸福というのは、自分の心の中にあるので、幸福というものを、外にある形の中に求めなくなります。
あらゆる形の中に豊かさを感じ、あらゆる形の中に喜びを感じられる意識になれば、全ては心満ちた状態となります。
幸福というものを、外にある理想的な形の中に求めて、それが得られない事を不幸と感じてもがき苦しむような、今の人類の意識状態も、そろそろ変更を余儀なくされる時が近づいているかも知れません。
幸福とはこういうもの、と多くの人が理想としている形も、人類が長い間信じ込んで来た、古い世界観、常識、概念にしか過ぎないということに気付く時が訪れる筈です。
幸福というものを外にある形の中に求めるのではなく、全てを喜びと感じられる心、幸・不幸という概念を超えた意識へと、人類の意識は、飛躍的進化を遂げようとしています。
新しい世界観
今、私達人類に最も必要なのは、新しい世界観だと言えるかも知れません。
今までの世界観とはまるで次元が違う、新しい世界観であり、この世界観が入って初めて、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新しい地球を創造出来ると言っても良いかと思います。
新しい地球、花咲く都・黄金文明は、この新しい世界観により誕生すると言っても良いかも知れません。
人類が数千年使ってきた世界観は、最早古過ぎて使い物にならなくなって来ており、完全に行き詰まりを見せつつあります。
今、地球上のあらゆる場面において行き詰まりが感じられ、未来に対する明確なビジョンを抱く事が難しくなっているかも知れません。様々な場面において、閉塞感が感じられるかも知れません。
今ある古い世界観のままでは、新たな未来を創造して行く事は出来ないと言っても過言ではないと思います。
新しい世界観を入れる事によって、現実世界に対するものの見方、考え方が、180度変わってしまうと思います。
自分自身、人生、世界・宇宙、幸福、などに対する感じ方ががらりと一変してしまうかも知れません。
何よりも変わるのは、幸福というものの捉え方であり、幸福という概念が大きく変わってしまうと思います。
幸福というものを、形の中に求めて、長い間もがき苦しんで来た人類の旅も、そろそろ終わりの時を迎える事になる筈です。
新しい世界観は、幸・不幸という概念を超えた高みへと人類の意識を導く事になると思います。
そして、世界中に山積しているかに見える問題と言われるものも、この新しい世界観により解けてしまうことになると思います。
全てを包含するだけの力を持っているのが、この新たな世界観だと言ってもよいかも知れません。
新しい世界観により、人類の意識は飛躍的進化を遂げ、新たな黄金文明を迎える事になります。
本当に、私達は、稀有の時代に生まれ合わせていると言えそうです。
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